その日は久しぶりに終日休みだった。――いや、自分の職業上、休日というのは有難いことだ。一日空いていても、急に事件だのなんだのと呼び出されることが少なくない。‘久しぶりに終日休みの予定だった’と言い換えたほうが良いのかもしれない。
とにかく、これと言った予定はなかった。しかし、なんとなく落ち着かない。
気がつけばいつも通りの時間に起床し、一度誰もいない事務所に立ち寄って新聞を取り、そのまま近くのホテルで朝食をとっていた。少し余裕のある朝と同じ過ごし方だ。どこかに出かけたりするよりは、こっちのほうがよっぽど安心感があってよかった。
そのホテルは一階が誰でも利用できるカフェになっていて、事務所からのアクセスがよいことから、朝食や遅めの昼食、午後の休憩にと、頻繁に通っていた。仕事に疲れて自宅に帰る気力がない日は、宿泊したりもする。
天井が高く開放感があるそのカフェは、とても居心地がよかった。駅からは少し距離があるために、ホテルの利用者や近くに勤めるサラリーマンなどが主な客層だ。時間帯によっては混雑していることもあるが、幸いその日は少し時間が遅いこともあるのか、割りと静かだった。
窓際から少し離れた2人掛けのテーブルを選ぶ。いつ鳴っても分かるように携帯をポケットから取り出し、コーヒーを片手に新聞を広げた。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか、お昼前になって利用客が増えてきたらしい。
女性が一人、‘ここ、大丈夫ですか’と向かい側の席をさし相席を求めてきた。俺はその女性に目を向けることもなく、無意識のうちに‘どうぞ’と言っていた、ようだ。しばらく経ってから新聞のページをめくった際に、そのすき間から目の前に女性が座っているのが見え、思わず驚いた。
――ああ、そうだ、自分が了解したんだっけな。考え事など、何かに夢中になっているときに周りが見えなくなる性格は、歳をとっても直っていないようだった。
混雑してきたようだし、それではそろそろ出ようか、と一面記事を上に新聞をたたみ、テーブルの上に邪魔にならないように置いた。
そして冷え切ったコーヒーを最後まですすり、大きな音をたてないようカチャリ、とソーサーにカップを戻したそのときだった。
「 ご自分の記事をご覧になるのですか 」
目の前の女性から発せられた言葉だった。俺はそのとき初めて女性をまじまじと見た。
歳は自分と同じくらい、20代前半といったところだろうか。少し茶色がかった髪は、ツヤがあり肩まで伸びている。格好はカジュアルなものではあるが、小奇麗にはしている。どこかのOLといった装いだ。
取り立てて美人といったわけではないが、親しみやすそうな感じのいい女性だった。
「 あっ、すみません、突然声をかけてしまって 」
黙ったままでいる俺に対して、慌てて女性は付け加えた。
職業柄、人を見極めるのがクセになってしまっている自分に苦笑し、少しきまりが悪くなり、いえ、とだけ返す。
女性が言っているのは、どうやら一面記事の事件の話らしい。都内で起きた女性の不審死。その犯行手口の残酷さから、少し世間を騒がせたようだが、昨日無事、犯人逮捕へと向かった。記事の片隅に、‘工藤新一も解決に関与’とある。おそらく女性はこれが目に入ったのだろう。
――自分の記事を見ているのか、その答えはイエスでもあり、ノーでもある。
以前のように、一面記事に飾られた自分の名前を確認して、ほくそ笑んだり調子に乗ったりする、ということはしなくなった。単純に大人になったということもあるが、おそらく小さくなった経験によって、周りから‘工藤新一’が注目されることに多少のためらいを感じるようになったのだろうと思う。
しかし今回のように、確かに記事をきちんと見ることもある。それはその内容によって、被害者遺族に何らかのトラブルが招かれる可能性がないだろうか確認するためだ。同じ意味で、週刊紙を読んだりすることもある。どちらも別に、自尊心を高める目的ではない。
特に今回は、事件が事件だ。犯人は被害者女性の婚約者で、やり口が残忍ときている。さらに世間に注目されていることもあり、それがマスコミにどう扱われているのか純粋に気になっていた。記事を読むと、自分が伏せてほしいと伝えた真実はマスコミには流れていないようだ。
こんな間に合わせの処置が、ずっと通用するとは思っていない。しかし、これが真実を追究する自分にできる、わずかな償いの一つだった。
「 それでは僕はこれで 」
前の女性にそれだけを告げ、立ち上がろうとすると、女性は慌てて声をあげた。
「 あのっ!…声をおかけしたのは、ただの興味本位ではないんです。――実は、ご依頼したいことがありまして… 」
工藤新一さんですよね、と続けて言う。すでに認めてしまったようなものだが、ええ、と一応頷いた。
「 事件性のあるものですか?――または一刻を争う事態ですか? 」
「 あの…、どこからお伝えしていいか、…分からないんですが… 」
女性はそう言って考え込んだ。――困ったものだ、と思う。
第一に、今日は一応、休みの予定だ。急な依頼にも対応できるよう準備はしているが、たまたま居合わせたOL風女性の、人生相談の延長のような話を聞かされるのは御免だと思う。
――例えば、物的証拠のない浮気調査だとか、ストーカー被害だとか。もちろん、依頼人を選んでいるわけではないが、依頼料も発生してしまう。調査内容によっては、自分よりも専門的な探偵が他にいることもある。
そしてこの場所だ。このホテルのカフェは、割りとプライベートな時間に利用していて、ここで依頼人と会ったことはない。どんな人間が出入りしているのか分からないこの空間で、込み入った話をすることは避けたいのだ。
話をするのなら、別の場所に移るか、事務所に案内するかのどちらかだが、少々億劫だ。事務所の場所も、一般の依頼人には分からないようにしてあるので、案内するにも気が引ける。
急を要する内容なのだろうか。…いや、たまたま居合わせた女性のはずだ。そんな様子でもなさそうだが…まさか、自分がここにいるのを知っていたのなら、話はまた変わってくるが…
とりあえず現時点での最善の提案をすることにした。スッと名刺を取り出す。
「 こちらの事務所にお電話いただけますか。平日はこの時間。宮前という女性が担当しています 」
「 ――宮野さんですよね?宮野志保さん 」
驚きで表情が崩れないように相手の顔を見る。笑っているような、いないような、曖昧な顔をしていた。
確かに宮前というのは偽名を使っているのは、宮野だ。別に正体を隠しているわけではないのだが、念のため偽名を使い、事務所で電話対応をしてもらっている。宮野が一人で一般の依頼人に会うことなどは一切ない。事務所の場所を公開していないのも、自分がというよりは、そこに出入りする人間が、危険な目に合うことのないように、である。
この女性は宮野の知り合いだろうか?それとも――?
他に考えられる最悪の事態が自分の頭をよぎった。――いや、そんなこと、あるはずがない。奴等とは、もう数年前に…
とりあえず、宮野の存在は肯定しないまま、話を探ることにした。
「 お知り合いの紹介か何かですか? 」
「 ええ、まあ、そんなところです 」
「 一度電話をされたとか? 」
「 いえ、直接事務所まで足を運びました。工藤さんはいらっしゃいませんでしたが、宮野さんはいらっしゃって… 」
「 その女性は何か言っていましたか? 」
「 …何かって…簡単に内容をお伝えしたら、クスリと笑って、事務所にいることは少ないから直接会いに行ったら?と言われました。なんだか、楽しそうにして… 」
「 …、はあ… 」
女性が何を話しているのか分からなかった。直接事務所に向かった?――知り合いとやらに場所を聞いたのだろうか?
さらに、宮野が楽しそうに笑うって、その状況がまず理解できなかった。一見の依頼人にはいつも以上に冷静で、神経を尖らせているのが普通であるのだが。――まさか、本当に純粋な宮野の知り合いなのだろうか?だとしたらなぜ、自分に伝えず、さらに直接会いに行け、などと伝えたのだろうか?
――いや、冷静に怪しすぎる。思い起こしてみれば、彼女は自分の身分や名前も言ってこないではないか。…こちらからも聞こうとはしなかったのだが、とにかく…
「 とにかく、彼女に直接確認してみます。――話はそれからでも遅くないですか? 」
その提案に彼女は一瞬不服そうな表情を見せた。そしてこう返した。
「 …さすが用心深いんですね。――以前はもっと、目の前のことに真っ直ぐでいらしたのに… 」
「 …以前、というと?…失礼ですが、前にお会いしたことがありましたか? 」
「 やっぱり、覚えていらっしゃらなかったのね 」
はっきりと物を言わない彼女の態度に、イライラしてきたころだった。
俺と知り合いか?――いや、人の顔を覚えることは苦手ではない。絶対とは言えないが、初めて見る女性、だと思う。
これは女性が使う常套手段の一つなのだろうか?この探り合いに意味はあるのだろうか?――しびれを切らした俺は、単刀直入に尋ねた。
「 申し訳ありません、どちら様でしょうか? 」
「 …ですから、言っているじゃないですか。――手を、貸してくれ、って 」
女性の目が、迷わずしっかりと自分の姿を捉える。その視線は鋭く、痛いほどこちらに突き刺さってきた。
周りの空気が張り詰めた気がしたその瞬間、走馬灯のように自分の中で昔の記憶がよぎった。
あれはまだ小さかったとき、いや、小さくなってしまってから何か月かが経ったとき、
この感じ…、やけに丁寧な喋り方、逸らせない視線、沸き起こってくるどこか懐かしい感情、――‘手を貸してくれ’…
ああ、そうか、簡単なことだ。
宮野のことを知っていたのも、事務所に直接出向けたのも、ヤツだったら頷ける。
「 ――なんだ、やけに回りくどいな…女装が趣味のコソ泥さん? 」
その言葉に、目の前の‘女性’は満足そうに微笑んだ。
たまたま居合わせたのではない。それは必然的な再会で、新たなる舞台の幕開けだったのだ。
End.
pixiv 2013.09.11