On your mark,

 春が過ぎようとしていたころ、駅から家までの帰り道を、とくに疲れを感じていたわけでもないのに、ダラダラ歩いていた。

 部活のこと勉強のこと、恋愛のこと友達のこと、いろんなことが頭の中を支配して、身動きがとれないほど抱え込んでいた時期。曲がり角の家の、花の匂いにも気が付かなくなって、下ばかり見ていた。


 その女の人とぶつかったのは、そんなときだった。

 ドンッ、と肩が当たって、はずみでその人が持っていたコーヒーがこぼれて、履きなれた靴がじわじわと汚れて。ひどくガッカリして顔をあげたら、その人も前方不注意だったのだろうか、やけに驚いた表情でこちらを見つめてきた。

 日本人離れしたあまりにも綺麗な人で、目があったとき、何か声をかけるのも忘れて見惚れていた。「ごめんなさい、よそ見をしていて」と、その形のいい唇が動いて初めてハッとして、適当に返答したと思う。

 10年ぶりに米花町に帰ってきたのだと話すその女の人は、記憶の中の、大好きだった憧れの女の子に似ている気がした。


*


 自宅からも学校からも遠く、さらに駅からもアクセスが不便なカフェ。夏休みに出来たばかりで、たまたま‘オープニングスタッフ募集!’という広告を目にし、アルバイトに応募。1ヵ月、お店が落ち着くまでという短期間限定だった。

 最初は、学校とは反対を行く電車も、お揃いの制服も、全てが新鮮でドキドキしていた。――だが、そんな気持ちも徐々に薄れていった。

 お客さんがお店に入ってきて、条件反射で「いらっしゃいませ」と言う。混雑していたら「お先にお席を…」と声をかけたり、余裕があればサイドメニューをオススメしたりして。

 5回目のシフトで、だんだんとこのアルバイトにも慣れてきた。もちろん、友人や知人、先生に会うこともなかった。

 何の気兼ねなく、のびのびと接客をする。そう思って働いていたのだが――…


「 えっ 」

「 あっ 」


 特別、目立つような格好をしているわけではないのに、一際目を引くのは、おそらく二人が美男美女だからだろう。お店のドアが開いて、すぐにそうだと気が付いた。


「 歩美ちゃんじゃない……ここでアルバイト? 」

「 そう!最近はじめたの 」


 まず話しかけてくれたのは志保ちゃんだった。外の暑さから解放されて、その白い首筋をハンカチで拭っている。


「 サッカー部のマネージャーじゃなかったか? 」

「 うん、夏休み中だけ!この間の地区予選、初戦で米花高校にあたって負けちゃって、ちょっと時間が空いたから 」


 そして新一さん。この暑さでもネクタイをしているのが妙にカッコよく見えた。


「 そりゃ気の毒だな… 」

「 帝丹は、過去に一度しか米花に勝ったことがないからね 」


 わざとらしく新一さんのほうを見た。――そんな自分に、曖昧に笑って返してきたために、追い討ちをかけるようにして続ける。


「 入部後、1年生のうちからレギュラーに選ばれて、強豪校との試合で次々に得点。帝丹サッカー部の歴史が変わるかと思われたのにすぐに辞めちゃった、えっと確か名前は――… 」

「 …本当に生意気ね… 」


 何も言えなくなった新一さんより、呆れたように呟いた志保ちゃんを見て、なんだか満足する。この二人のこの空気が好きだった。


 「吉田さん」と店長に釘をさされ、思い出したかのように「ご注文はお決まりですか?」と聞く。――こういうときでもマニュアル通りの文句になってしまうのはなぜだろうと、ぼんやり思う。


「 アイスコーヒー、Мサイズで2つ 」


 新一さんはメニュー表も見ず、財布を出しながら言った。片方は氷を少な目でお願い、と付け加えて。

 ミルク、ガムシロップはこちらからどうぞ、って、これもまたマニュアル通り言ったけれど、なんとなく使わないだろうなと思った。


*


 それから二人は、よくお店に来てくれるようになった。――なんでも、この辺りに依頼人が住んでいるという。

 けれど、事件はもうじき解決しそうだと言っていた。事件が解決するのが早いか、自分のバイト期間が終わるのが早いか、というところだった。

 少しだけ寂しく感じた。今日も二人に会えるだろうかと、楽しみにしていたから。そのために店長に無理を言って、当初の予定よりシフトの回数も増やしてもらったのに。



 ある日、新一さんが一人でお店に来たとき、ちょうど自分の上がり時間と重なった。

 その日はホットコーヒーを注文して、仕事の合間に新聞を読みながら、一息ついているようだった。――だから、「ここ、いいですか?」と、わざとかしこまって聞いて、二人掛けのテーブルの、彼の前に座った。


 小学校の頃から、阿笠博士の家のお隣さんだからか、たまに一緒に遊んだりして、何度か顔を合わせる機会があった。親しいというか仲が良いというか、面倒を見てもらっているというか、近所のお兄ちゃんという感じだった。

 けれど、こうして面と向かって二人で話すのは初めてかもしれない。いろんなことを気にして躊躇するより、興味本位の気持ちが勝った。


 携帯電話を触る自分に、「こないだのカズキくん?」と聞いてきた。カズキくんというのはサッカー部の同級生で、二人で歩いているところをたまたま見かけたらしい。


「 違うよ、カズキくんとは何でもないの 」

「 でも一緒にサッカー観に行ったんだろ? 」

「 それはそれよ! 」


 新一さんにそんなこと突っ込まれたくなかった。――おそらく、彼が自分の初恋の人に似ているからだろうと思う。その人がこの街を去ってから少し経って新一さんが現れて、さらにその人と親戚関係にあるらしいから、二人を重ねて見ずにはいられなかった。


「 ――ねえ、新一さんは? 」

「 ん? 」

「 結婚とか、しないの? 」


 しまった、という表情を隠さなかった。けれど、もう遅いよ、と心の中で言ってやった。


「 んー……まあ、ぼちぼち、ね 」

「 やっぱり、蘭さんと? 」

「 …うん、そう。…かな?――うん 」


 その照れた表情を見て、なんだか複雑な気持ちになった。初恋の人に似た新一さんを、少し好きだったのかもしれない。……というか、好きとまでは言わなくても、それに近い気持ちで視線を送っていたのは確かだった。

 しかし自分よりずっと年上の、普通の男の人で、もちろん大切な人がいて。

 ――いや、それもそうなのだけれど。その気持ちも本当なのだけれど。そういうことじゃなくて。


「 志保ちゃんは? 」


 不思議と、素直に出た言葉だった。


 志保ちゃんと初めて顔を合わせたとき、彼女もまた自分の憧れの人に似ていると思わせた。

 静かに話す横顔、ときどき見せる笑み、淡々とした、でも柔らかな口調。どれ一つとっても、記憶の中の、あのときの女の子と似ていて、初めて会う気がしなかった。

 だからその日、家に帰り、今までずっと開けていなかった宝箱をひっくり返して、写真を見返した。――だが、‘似ている’という表現はしっくりこなかった。

 哀ちゃんって、こんな顔だったかな。記憶が勝手に補正して、全く別の人を写し出しているような気がしてならなかった。あのときはまだ小さかったし、ちゃんと覚えていないのかな。

 そして、そもそも参考となる写真の数が極端に少ないことに落胆した。あんなに楽しかった日々なのに、17年間生きてきた人生の中では一瞬の出来事だったのだ。――大事なことは、嫌でも年々増えていく。


 そうやって、自分の中でモヤモヤした気持ちが晴れないとき、新一さんと志保ちゃんが二人でいるところに遭遇した。偶然、人だかりができた事件現場を覗いたときに、その場に居合わせたらしい彼らが捜査に加わっていたのだ。

 複数の関係者の中心に立っている二人を見て、いろんなことが走馬灯のように頭の中を駆けめぐった。


 ――ああ、あの二人がいるんだ。

 単純にそう思った。どこにでもああいう人たちっているんだ、とか、そういうことではない。

 ‘あの二人がいるんだ’。


 彼らを一人ひとりで見たときは分からなかったのに、二人で見たときは綺麗にピースがはまった気がした。

 ――ああ、二人がいる。久しぶりに、心が踊ったような気がした。自分は、一人ひとりもそうだけれど、‘二人’にも憧れていたんだ。


 なんであの頃の思い出、忘れようとしていたのかな。突然の別れが寂しくて悲しくて、記憶に鍵をかけて。立ち直ったようなフリをして、平気なような顔をして。

 時間の経過は残酷だった。そうしているうちに、本当に忘れかけてしまっていた。――あの日、ああやって志保ちゃんに出会わなかったら、二度と思い出せなくなってしまっていたかもしれない。


 それから少しずつ、自分の中の大事なものに、きちんと向き合おうとする余裕ができた。抱え込んでいたものの荷解きが上手くいって、足取りが軽くなったような気がしていた。



「 志保ちゃんのこと、大切じゃないの? 」


 何を聞いているのか、自分にもよく分からなかった。それでも新一さんは、穏やかに答えてくれた。


「 ――うん。だから結婚するんだよ 」

「 ……なにそれ、よく分かんない 」

「 そのうち分かるよ 」


 欲しかったのと違う答えを頭で噛み砕く。やっぱりよく分からない。

 半分あたりまで飲んだオレンジジュースのグラスの中で、ストローを弄んだ。


「 そういえば、あの二人には?会わねーの? 」

「 ……会うよ、明日、久しぶりに 」


 急に話を変えるようにして振ってきたために、簡単に答えた。

 大学受験のために、最近は休日も模試や勉強で忙しい光彦くん。柔道部の活動に力を入れている元太くん。三人の時間を合わせるのも難しくなってきた。――もっとも、最初に距離を置いてしまったのは自分だったのかもしれないが。


「 元太くんに都大会出場の応援メッセージを書いて、渡すことになってるの 」


 今日、お店に来る前に少し時間があったため、色紙を買っておいた。駅前の雑貨屋の袋をカバンから取り出す。


「 ――あ、そうだ、新一さんもOBとして書いてくれる? 」

「 ……オレが?書いてもいいの? 」

「 もちろん!帝丹の星よ! 」


 今だって語り継がれている。サッカーが上手すぎて、体育の授業ですら観に来たプロ選手がいたらしいとか、その端麗な容姿からハリウッド女優と付き合っていたらしいとか、神出鬼没の泥棒からFBIまで、いろんな人間を電話一本で動かすらしいとか、嘘か本当か分からないような噂話ばかりが飛び交った。


 色紙とペンを渡す。考えながら時間をかけて、期待していたよりもずっと丁寧に書いてくれた。――軽い思いつきで頼んだだけだったから、少しだけ驚いた。

 あれ、新一さんって左利きだったんだ、とペンを持つ手を見ながら不思議に思った。けれど、口には出さなかった。

 書き終わって、ありがとうと受け取る。元太くんに喜んでもらえるといいな、と考えていたら、新一さんも同じことを口にした。なんだか嬉しくなった。


 コーヒーを飲み終わって、そろそろ行くと言うから、一緒に外に出る。日が傾きかけていて、夕方独特の暑さが残っていた。

 

「 ――どうせ米花に戻るから、送ろうか? 」

「 大丈夫!買い物したいから 」



 スニーカーのひもを固く結んで、駅に続く賑やかしい通りまでの道を、いまにも駆け出しそうなくらい早足で歩く。

 大好きだったものを、いつまでも大好きでいてもいいのかな。――そうやって自問自答しながら、また意味のある一歩を踏み出せそうな気がした。


*


 その後姿が消えるまで見送ったところで、工藤は車に乗り込んだ。


「 試されてるのかと思った 」

「 ――何が? 」


 別行動をしていた宮野が、その用事を済ませ、工藤をここまで迎えに来ていた。運転席から訳も分からず聞き返す。


「 いや… 」


 女の子は鋭いなって話。

 ただそうやって呟いただけの工藤に、「そう」と分かったような分かっていないような返答をした。単に興味がないだけかもしれない。


 混雑する駅前を避け、車はゆっくりと滑り出した。




End.


pixiv 2014.10.13