くらくら

 1日の中で暑さのピークを迎える午後2時過ぎ。電車を降りた途端、むわっとした熱気が容赦なく自分を包んだ。

 ロータリーで停車中のタクシーに乗り込む。ここ米花駅から自宅まではたいした距離ではないが、約1ヵ月の海外出張から先ほど帰国したばかりで、大きなスーツケースも抱えている。暑さに疲労に、重たい荷物に。たとえ少しの距離でも考えるだけでうんざりだった。


 見慣れた住宅街を窓から眺める。自分の顔を知っているのか、タクシーの運転手は何も言わず工藤邸の前で車を停めたが、もう1軒先のところでお願いします、と声をかける。自宅に帰ったところで誰もいない。


 運賃を払いタクシーを降りると、慣れた動作で門を開く。庭に植えてある珍しい薬草の数々が、相変わらず綺麗に手入れされていた。

 玄関の扉を開けると、スッと冷気が飛び込んできたことに安心する。夏休み中だから出かけているかもしれないと思ったが、誰かいるようだ。

 しかし、博士ー?と声をかけるも返答がない。おや?と不思議に思いながら部屋の中まで歩を進めると、ソファのところで静かに寝息をたてている少女――灰原哀に気が付き、ギョッとする。


 学校へ行く用事でもあったのだろうか、セーラー服を着たまま、細い腕で膝を抱え込むように丸くなって眠っている。スカートから伸びる足は、一瞬見とれてしまうほど白く、透明感と艶があった。

 髪の毛に隠れて顔は見えないが、すやすやと静かに寝ている様子は気持ちよさそうで、あまりにも無防備だ。その姿に、時差ボケによる頭痛がさらにガンガンと響いてくる感じがした。

 そっとタオルケットをかけてやると、ん…、と声をもらす。

 ――ああもう、どうして。彼女がいれば、何か日本食でも作ってもらおうかと思っていたのに、これでは起こせやしない。

 仕方がないから黙って1人、静かに冷蔵庫を開けた。


*


 窓から夕日が差してきた頃、突然、勢いよく彼女は起き上がった。

 すぐに寝起きの頭を回転させ状況をとらえると、キョロキョロと時計を探し、時刻を確認している。――そこでカウンターの前で座っていた自分と、バチッと目が合った。


「 帰ってたの…… 」


 喉が渇いているのか、かすれた声でつぶやいた。自分には特に無愛想な表情を見せることが多い彼女だが、寝起きでもそれは変わらなかった。むしろいつもより酷いくらいだった。


「 オレには制服着たまま寝るなって、よく言ってたくせに 」

「 ……どうしても眠たかったの 」

「 つーか夏休みじゃねーの? 」

「 登校日 」


 ソファを離れてキッチンに向かい、水を飲んでいる。

 ふわりとゆれるウェーブのかかった茶色の髪、スラッとした手足が美しく、年齢を重ねるごとにそういえばハーフだったな、と思い出す瞬間が増えてくる。

 また少し痩せただろうか。寝不足なのだろうか。心配する視点はまるで保護者のようだと苦笑した。


「 あ、カレー作ったけど、食べる? 」

「 …いらない… 」

「 あ? 」

「 ――少しだけ食べる 」


 一瞬、ものすごく怪訝そうな表情を浮かべたのは気のせいだと思いたい。

 着替えてくる、と言ってリビングを後にした彼女を見送った。


*


 いつ公開されたか分からないほど昔の洋画を流しながら、ソファに2人、なんとなく並んで座る。――おそらく、コナンだった頃からのクセかもしれない。テーブルを挟んで向かい側にはいつも、あの賑やかしい3人が座っていた。

 彼女の前には、サッと野菜を切って作ったサラダと、それで満腹になるのかと思うくらい少量のカレーがある。自分の前には、よく冷えた缶ビールとグラス。


 それにしても。ノースリーブワンピースを1枚羽織っただけの姿の彼女を横目で見ながら、ため息が出そうになる。

 なぜ彼女はこれほどまでに無防備なのだろう。夏という季節柄なのか、15歳という年齢の油断から来るものなのか。後者であれば、考えを見直したほうがいい。彼女はそこら辺の中学生より段違いで大人っぽく、女性らしかった。


「 彼氏できた? 」

「 は? 」

「 いえ、何でもアリマセン 」


 これだけ綺麗だから、寄ってくる男の1人や2人くらいいるだろう。そう思って唐突に聞いてみたのだが、あまりの威圧した返答に気がひるんだ。思わず目の前のビールを口に含み、言葉を流し込む。


「 ――できた 」

「 ――え、なに、かれ 」

「 冗談よ 」

「 …んだよそれ… 」


 クスッと笑う彼女に、これだけは昔と変わらないな、と苦笑する。相手をからかったような笑い方。こういうところ、精神的には年上だし敵わないんだよな、と思う。


「 ――できたらさ、連れて来いよ 」

「 ……どうして? 」

「 品定めする 」

「 過保護 」


 呆れたわ。最低ね。…そんな言葉を浴びせられても、なんだか悪い気はしないのはアルコールのせいだろうか。

 いつの間にか空になったグラスに気付いた彼女は、缶を手に取り、トポトポとビールを注いでくれた。綺麗な7対3の泡立ち。変なところマメで器用だ。


 この何気ないやり取りが、とてつもなく幸福だと感じる自分がいる。この気持ちの正体も行方も分からないけれど。

 でも分からなくていい。分かろうともしないのだ。ただただ、こんな時間が少しでも長く続けばいい。

 そんな風に思いながら、ツートンカラーのグラスの汗をなぞった。




End.


pixiv CANDY CANDY 2014.08.18