カーテンから光が漏れないくらい、明け方の早い時間帯だった。意識の彼方で、微かに携帯電話の振動音が鳴っている。シーツの上で、鈍いバイブ音が連続している。
電話がかかってきているのは分かっている。でもなんとなく起きられない。身体が重たかった。――けれど、そんな甘えは許されない。容赦なく響くコール音。いつのまにか自然と携帯電話に手が伸び、無意識の内に電話に出ていた。
『 ――悪い、寝てたよな? 』
「 ――…ん… 」
『 ……あのさ……メール送ったから、確認して 』
そこでブツッと電話が切られる。それから一瞬の間を経て急に覚醒した。バッと起き上がり、時計を確認する。
――まだ5時前じゃない…――
夢であったらよかった。しかしたった今、電話に出たことへの記憶は確かで、頭の中に響いた声も残っていて…。なんとなくため息を吐いた。
恐る恐る、後ろを振り返る。起こしてしまっただろうかと心配したが、規則正しい寝息が聞こえ、少しだけ安心した。
広いベッドで、こちらに伸ばされた腕。向けられた顔。――また自分は、この好意に反して、彼に背を向けて眠っていたらしい。悪い癖だった。
少し色の違う、その茶色い髪に触れる。汗が乾いたあとで、少し乱れていた。
くっきりとした日焼けの跡をなぞってみる。くすぐったさを感じたのだろう。自分の手を逃れるように身体を動かしたのを見て、思わず笑みがこぼれた。
彼は昨日、帰国したばかりだった。ジェットラグと疲労で、いつ起きてくるのか分からない。
慌てて、でも音を立てないように気を付けて、ベッドからするりと抜けだす。少しだけ肌寒く感じた早朝に長袖のシャツを羽織り、静かに部屋を出た。
*
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。
‘3年前の連続放火事件の資料の準備’‘出来れば昼には現場に来てほしい’――要件だけが簡単に書かれた素っ気ないメールだった。またため息を吐きそうになる。
今日は、二人でサッカーを観に行く予定なのだ。彼が所属していたチームの試合で、確か15時キックオフだった。少しだけ早めに行って、久しぶりに会う、前のチームメイトと交流をして。試合後も、仲の良いメンバーでご飯に行く約束をしていた。――それなのに。
事件は突然起きるし、彼は…――工藤くんは、自分の私生活の予定なんか把握していない。そんなことに気を遣っていられるほど暇じゃないのだ。それは痛いほど分かっている。分かっているけれど…
とりあえず必要だと思われる資料を集めた。時間は限られている。久しぶりだから、彼が起きる前に朝食を作って待っていたいのだ。
寝ぼけた頭を無理やり起こし、パソコンの画面と睨めっこした。
*
パタン、と遠くのほうで物音がしたのを聞き、ああ、起きたんだなと思う。タイミングとしては丁度いい時間帯だった。スッと、トマトに包丁を入れる。あと少しでお湯も沸騰しそうだった。
窓ガラスにぼんやりと自分の姿がうつる。――首元の赤い跡は目立つだろうか。チリリと柔らかな痛みが蘇り、同時に熱をもった。襟のついた服を選んだほうがいいかもしれない。
彼が、ひょこっとキッチンに顔を出した。自分の姿を認めると、一瞬で表情をゆるめる。つられて口元がほころぶも、無意識のうちに視線を下に落としていた。
「 おはよう 」
「 ――……包丁、持ってるわ 」
自然に顔を近づけてきた彼を、やんわりと拒む。
そっと彼の手が肩のところに触れて、掠めるようなキスをした。
向かい合うようにしてテーブルにつく。
一人で使うには広いスペースも、二人であれば丁度良いくらい。彩り豊かなメニューが並んだ。自分は彼の半分も食べない。
「 何時に出る? 」
「 準備ができたら?――いつでも大丈夫よ 」
ぼんやりと仕事のことが頭に浮かんだままでいる。上の空になってしまっていないだろうか。――彼も彼で、人のことをよく見ているなと思う。ちょっとした動き、微妙な視線の上下、声の調子、間の取り方。
一緒にいるようになって、もう長く時間が経つからかもしれない。…もしくは、それも一種の職業病かもしれない。
‘二人の食卓、フレームに収めたいくらい絵になりますね’なんて、茶化されたことがある。けれど、このテーブルで二人で食事をした回数なんて、両手で数えられるくらいだと、誰が把握しているだろうか。
だからこそ、この時間を大切にしたい。――今朝のためだけに用意した、テーブル上に置かれた花瓶の一輪の花が、静かに揺れた。
*
「 行ける? 」
鏡を見つめていた自分に、後ろから声がかかった。ええ、と短く返事をする。
必要最低限の資料を詰めた、少しだけサイズの大きなカバンを手にする。今日の服装に、そぐわないものではないだろうか。チラリと再び鏡を盗み見た。
後姿を追いかけながら、ねえ、と言いかけて止めた。彼が左手首にしているブレスレットが、いま自分がしているネックレスとセットのものだということに気が付いたから。
遠く離れている時間が長いことで、お揃いのものは随分と増えた。――その中で、示し合わせたわけではないのに同じものを身に着けていることが、なんだか嬉しかった。
そっと、その左手を握った。
車に乗り込む。地下の駐車場から這い上がって、表通りに出た。
「 貴大に会うの、久しぶりだな 」
「 ……こないだ会ったわ 」
「 なんで? 」
「 なんでだったかしら… 」
ぼんやりと窓の外を見ながら、真剣に思い出す気もないような返事をした。
見慣れた景色も、歩いて見るのと、タクシーから見るのと、こうして彼が運転する車から見るのと、全く異なっていた。最近、通りにできた小さな輸入文具店も、この速度では見落としてしまう。
チラリと時計を見る。11時半を過ぎたくらいだった。
試合が行われるスタジアムから事件現場までは、それほど遠くはなかった。その気になれば、会場に着いてからでも、少しだけ席を外すということが不可能ではない。幸い、最寄駅も徒歩で行ける距離にあった。
先ほどメールをしたばかりだが、後でまた電話を一本入れようと決めた。――そう決めたのだが。
「 事務所まで送るよ 」
不意に発された言葉の意味がとれず、思わず勢いよく彼のほうを見た。
「 事件だろ? 」
一定の速度で車を走らせたまま、その瞳は脇見も振らず、前だけを見ていた。穏やかでありながら、はっきりとした口調が、頭に響く。
――どうして、と思う。どうして。
そんなに分かりやすかっただろうか。悟られてはいけないと思っていたのに。…悟られる前に、自分の口から伝えなければいけないと思っていたのに。
「 …現場に…直接でいいの 」
のどからやっと出てきたような、絞り出すような声だった。しかし、ここで不甲斐なさを見せては、きっと彼の思いは報われない。彼だって、潔く放った言葉であろうから。
「 ――……ごめ 」
「 謝罪なら工藤にさせるよ 」
あいつ、オレのスケジュールくらい頭に入れとけよな。
そうやって笑って冗談を言う彼に、少しだけホッとする。ありがとうと、今度はしっかり声に出して伝えた。
「 じゃあ、ね 」
車を一時停止したところで、声をかける。
すぐにスタジアムに戻ろうと考えているけれど、そんな約束はできないから伝えない。もうため息は吐かない。
ドアを開けて車を後にする。
停止したままだった車が、少し間を空けてから再び走り出したのを、耳で確認した。その間、一瞬でも振り返ろうとはしなかった。――ただただ、その場を足早に離れた。
End.
pixiv 2014.09.16