「 今日は午前中に打ち合わせ、移動しながら昼食をとって、 」
「 …………… 」
「 午後は病院。被害者と面会して――って……ちょっと聞いてるの?工藤くん 」
え?ああ…、と寝ぼけ眼で返事をする。思わず深いため息を吐いた。
週末は遠方まで出張に行っていて、帰ってきたばかり。疲れがたまっているのは無理もないと思いつつ、事件体質な彼に休みを与えられる余裕はない。
幸い、今日の打ち合わせは米花町ですることになっており、朝は少しだけ、いつもよりゆっくりできる。
久々に、ここ阿笠邸で、二人で朝食をとっていた。
小食な彼はトーストしか食べないし、小食な自分はシリアルしか食べない。何か少しでもお腹に入れてコーヒーでも飲めば、朝はそれでよかった。
新聞を広げながら、ふーん、と呟く。その様子を横目で見ながら、しかし、どの記事に焦点が合っているのか分からないものだから、軽く聞き流した。
探偵なんて、依頼者に胡散臭がられなければ、オフィスカジュアルな格好でいいだろうと思う。それでも彼は、サラリーマンと変わりないような格好を好んだ。目立たないくらいが丁度いいというが、手遅れだと思う。
慣れた手付きでネクタイを結ぶ。容姿端麗な彼は、いつまで経っても若々しく、新入社員のようだった。
「 ――あ、ボタンとれかかってる 」
シャツの袖の部分を見ながら、彼がボソリと言った。
「 ――宮野、これ付けといてくれねーか? 」
「 ……博士が意外とこういうの得意よ 」
「 …つめてーな… 」
事務所に置いといて。時間があるときにでも付けるわ。――そう言いながら、忘れ物がないかをチェックした。
今や、この家を出てしまっているため、次にいつ来られるかは分からない。
たまたま家主が長期不在であり不用心に感じたこと、また、米花町での依頼があったことにより、久しぶりに立ち寄ったのだ。
火の元、戸締りを確認し、阿笠邸を後にする。車に乗り込んで、もう一度スケジュールを確認した。
また一日が始まる。
*
日の出の時刻がだんだんと遅くなってきた。
大学時代、研究室でお世話になっていた教授と、ずるずる朝まで話し込み、まだ薄明かりのうちに電車に乗る。そのまま事務所に向かった。
さすがに誰もいないだろうと思いながら鍵を開ける。――しかし、その予想に反し、扉を開けてすぐ、エントランスのところにある来客用のソファーに、工藤が沈み込むようにして眠っていた。思わずギョッとする。
――どうして、と思う。確か昨日は、夕方に警視庁に立ち寄って、そのまま帰宅すると言っていたはずなのに。まさかそのとき、何か事件でもあったのだろうか。それが有り得るから彼の周りは物騒だ。
冷える朝に、毛布を出して、かけてやる。おそらく事務所に帰ってきて仮眠室にいく余裕もなく、ここで寝てしまったのだろう。
あたたかさを感じたのか、少しだけ安心した表情になった寝顔を見ながら、シャワー室に向かった。
―――……
シャワーを浴び、仮眠室で寝てから4時間ほど。そろそろ彼が起きる頃だろうと様子をうかがうと、今度は事務作業用の机の上に突っ伏して寝ていた。
コーヒーでも淹れていれば、そのうち目を覚ますはずだと、お湯を沸かす。――その物音に気が付いたのか、彼はゆっくりと顔を上げた。
「 …腹へった… 」
「 ……起きて一言目がそれ? 」
「 昨日の昼過ぎから何も食べてねえ… 」
弱々しくそう言って、うなだれる。そんな様子に呆れながら、戸棚をあさり、何かすぐに食べられそうなものはないか探した。
「 ご飯作って。あったかいご飯 」
「 …あのねえ……子どもじゃないんだから 」
「 栄養足りてない。元気でない。――…なあ、宮野 」
ご飯、作りに来て。
あまりにも真っ直ぐな瞳で言うから、皮肉で返すのも忘れた。
―――……
コトリ、と机にコーヒーを注いだマグカップを置く。
「 今日は午前中に病院。警部も来てくれることになってるわ。――午後はお休み。疲れてるようだし真っ直ぐ帰宅して 」
んー、と生返事をした。
滅多に使わないスケジュール用のホワイトボードに今日の日付を書き入れ、工藤の午後の欄に‘欠勤’と記入する。
また一日が始まる。
*
一人、事務所に残り、伝票整理や資料のファイリングをする。
彼はほとんどの事務作業を、自分に任せていた。だから、今すぐ欲しい資料がどこに仕舞ってあるのか分からないということが、しばしば起こる。それだけの用事で連絡を寄越すこともあった。
作業開始前は目を背けたかった紙の山も、片づけてみれば意外と捗る。パソコンでメールをチェックしながら、時折かかってくる電話に応対しながら、黙々と進めていると、あっという間に時間は過ぎていた。
気付けば外は薄暗くなっている。集中していて感じなかったが、日中に暖房をつけていなかったために、室内もひんやりとしていた。
――そろそろ帰ろう。そう思った。自分も今日は寝不足で、疲労を感じていないわけではない。
上着をハンガーから外し、身支度を整える。ふと、ソファーのところに無造作に置かれた、ワイシャツが目に入った。
――ああ、そういえば、ボタンを付けるなんて口約束をしていたかもしれない。シャツを手に取り、袖のところの、今にも落ちてしまいそうなボタンを見ながら思い出す。
持って帰ろうと、丁寧にたたんで、適当な紙袋に入れる。――そのとき、近くでカタッと物音がした。咄嗟に振り返るも、辺りには何も変化は感じられない。
不思議に思いながら、事務室からエントランスへの扉を開けかける。すると、同じタイミングでドアノブが回され、思わず手を放した。
キイイ…と、嫌にゆっくりと扉が開き、少し緊張して身構える。
目の前に立っていたのは、工藤だった。
「 ……脅かさないでくれる? 」
ため息まじりに言い放つ。
ここに入って来られる人間は限られていると、自分でも重々承知の上だが、それでも時々、どういうわけかセキュリティを破って訪問してくる輩もいるのだ。
「 午後はお休みって言わなかっ…… 」
言い終わる間もなく、急にトンッと自分に寄りかかってきた彼を、肩で受け止める。ずっと外の空気に触れていたのだろうか、身体はすっかり冷え切っていた。
「 ――……どうしたの? 」
少しだけ戸惑いがちに聞いたこの質問が全く意味を成さないことを、彼も自分も知っている。
聞かなくても分かっていた。
「 ……待つのって、こんなに辛いんだな 」
弱々しくポツリと呟いた言葉が、冷たい室内に静かに響く。――その言葉に耐えられず、無意識のうちに目を伏せた。
彼が言っているのは、幼なじみの毛利蘭のことだった。
――2ヵ月前、偶然、殺人事件の現場に居合わせた彼女。
その捜査中、現場からは言い逃れができない物的証拠が見つかったが、そのことに焦った犯人は、全員の意識が自分に向かないうちに、車で逃走しようとした。
勢いよく走り出す車。――不幸なことに、その進行方向の先にいたのが、彼女だった。
無論、スピードが出ている車が、急にピタリと停止することはできない。大きなブレーキ音だけがその場で響いた――…
打ち所が悪く、今も昏睡状態が続いている。いつ意識が戻るのかは分からなかった。
「 目の前にいるんだぜ…?今にも起き上がりそうなのに 」
事故後の病室は、彼女の両親をはじめ、警察関係者や知人が集まっていた。しかし、彼女の親友がむせび泣いている以外、誰も何も言おうとはしなかった。
シンとした病室で、彼の声が響いた。‘僕は――……、目を覚ますまで、蘭を毎日見守ります’……
その場にいた全員の視線が、一気に彼に集中する。
彼は気丈な態度で、ベッドで眠っている彼女だけを真っ直ぐ見ていた。
「 誰のせいでもない。オレのせいなんだ 」
「 …工藤くん… 」
他の誰よりも、傷ついているのは彼だろうと思っていた。――けれど、弱音を吐いたのはこれが初めてだった。
顔を自分の肩のところに預け、その表情こそ見えないが、しっかりとした口調に、わずかに震え声が交ざっているのが分かる。
彼女がそのような状態でも、変わらず日常は過ぎていく。事件は起きるし、そうなれば彼は必要とされる。精神的に相当まいっているはずだ。
そのとき、自分のカバンの中で、私用の携帯電話が鳴った。
初期設定のままの、ありふれた音のフレーズが、一定の間隔を保って鳴り続ける。
コール音は、なかなか諦めてはくれない。電話の主には心当たりがあった。鳴り止まない音に、ドキ…、ドキ…、と心臓もうるさく鳴り響く。
――出なきゃ。今すぐ寄りかかる彼を放して。カバンから携帯電話を取り出して。後からかけ直す、と一言伝えればいい話だろう。
けれど、出ようとはしなかった。
その代わり、恐る恐る、その背中に腕をまわして、きゅっと弱い力で彼を抱きしめる。――途端に、彼は力が抜けたのか、膝から崩れ落ちた。
つられて床に膝をつき、今度はもっと、強い力で抱きしめる。言葉には出さないが、‘大丈夫よ’と、まるで子どもをあやすように、細かく震える背中をさすった。冷えた身体を温めるように。精神的な負担で縛られた心を解きほぐすように。
こうしているときの、この感情を言い当てる言葉が見つからない。不純な愛情だと感じた。――けれど、妙に心地よかった。それだけは確かだった。
End.
pixiv 2014.10.01