とどかない

 その日、灰原哀は土曜日でありながら学校へ来ていた。担任、学年主任、また英語の教員から押すに押されてきた、英検を受けるためだ。


 無論、哀はハーフである上、宮野志保だったころはアメリカに滞在していた経験もあるので、英語は得意だった。

 が、英検を受けるということに興味はなく、廊下の掲示板に張り出された英検のポスターも気づかなかったくらいだった。


 そんな哀を、教師陣は放っておかなかった。


 たいして気乗りしない哀を、せっかくだから受検してみなさい、と職員室で説得し、じゃあ…と言って承諾した。

 そして今日、受検するに至ったのである。


 試験は午前中に終わった。

 昇降口を出て、まっすぐ家に帰ってご飯を食べるか、簡単に何か食べてから帰るかを考えながら歩いていると、グラウンドで練習しているサッカー部が目に入った。

 思わず立ち止まって、懸命に走っている江戸川コナンの姿を見つけ、目で追う。


 こんな休日までお疲れ様、工藤くん。


 事件ばかり追っているコナンの姿が印象的だったので、こうして改めてサッカーをするコナンを見ると、なんだか新鮮だった。

 時間も忘れ、さわやかな秋空の下、ボーッとサッカー部の練習風景を見ていると、突然「 哀ちゃんじゃないっ?! 」という声が聞こえ、哀は驚いて後ろを振り返った。


「 やっぱりそうだーっ!!久しぶりだねっ! 」

「 吉田さん……ああ、マネージャーだものね 」


 キラキラした目で哀のほうへ駆け寄ってきたのは、吉田歩美だった。2リットルのペットボトルのお茶を2本、重たそうに地面に下ろし、哀の横に座る。


 歩美とは、今でも廊下ですれ違ったときなどに少し話したりもするが、以前ほど親しくしているわけではなかった。こうしてちゃんと言葉を交わすのは2、3ヵ月ぶりか。自分よりよっぽどコナンのほうが、歩美に接する機会が多いようだった。

 ――しかし、哀は振り返る前から自分を呼ぶ声の主が歩美であることを分かっていた。自分のことを‘哀ちゃん’と呼ぶのは、今でも歩美くらいしかいないのだ。


「 休日も部活なんて、お疲れ様 」

「 うんっ!3年生が引退しちゃって大変だけど…でも最近ますます楽しくなってきたかも! 」


 コナンくんもレギュラーに選ばれたんだよ、と歩美は嬉しそうに話す。

 少し大人っぽくなったその横顔は、まるで知らない人であるかのように哀の目にうつった。いつまでも真っ直ぐで、素敵な女の子に成長したものだ、としみじみ思う。


「 あっ!コナンくん、こっちに気がついたみたい!コナンくーん!! 」


 練習中のコナンが、コートの片隅で息をつき、タオルで汗をふきながらこちらに向かって手を振る。歩美もそれに応えるように、両手で大きく手を振った。


「 そういえば哀ちゃんに言おう言おうって思って、言えなかったことがあるんだけど、 」


 歩美は、哀のほうを見ることなく、前を向いたまま話し始めた。


「 …なに? 」

「 私ね、中学校にあがる前に、コナンくんに告白したんだ 」

「 …そう… 」


 ――知ってる。


 中学校にあがる直前の春休みのことだ。コナンが毛利探偵事務所から引越しした際に、阿笠博士の家でパーティーを開いた。

 そのパーティーを解散したあと、取りに行くものがある、と言って工藤邸に向かうコナンを、歩美が呼び止めているところを、哀は見てしまっていたのだ。

 会話の内容までは分からなかったが、その前後の歩美のコナンに対する態度から、きっと告白か何かだろう、と悟った。――一方で、コナンは例のごとくひょうひょうとしていたわけだが。


「 告白っていうか…私は告白のつもりだったんだけど…――『 ずっとずっと、コナンくんのことが好きなんだ、きっとこれからも、ずっと 』って、伝えたの……そしたらコナンくん、なんて言ったと思う? 」

「 …さあ?なんて言ったのかしら? 」

「 『 オレも歩美のこと好きだぞ!これからもよろしくな! 』――って… 」


 あの人だったらありがちな展開…

 思わず苦笑してしまう。哀はそのときのコナンの声のトーンや表情、態度まで想像することができた。


「 私、ずっと言いたくて…でも言えなくて…すっごく勇気を振りしぼったのに、コナンくん…本気にしてないっていうか、私のこと、友達としてしか見てないっていうか 」

「 ……… 」

「 そのあとはずっとショックだった…もう一度言ってやろうかなーって思ったり。――でもね、結局それが答えなの。コナンくんにとって、私はただの友達なんだって 」


 哀は黙って歩美のほうをじっと見る。

 やはり、強い女の子だ。私なんかよりずっと、強い。


 ――蘭さんみたいな…――


「 そう思えたらもう、前よりもっといい友達になるんだって考えられるようになって。コナンくんがこんなふうに人気者になっちゃってからでも、自分がいちばんコナンくんと仲良しなんだって、言い聞かせてるの。……バカだよね 」

「 ううん。――妬けるわね 」

「 あっ、もちろん哀ちゃんも、私のいちばんの親友! 」


 歩美が慌てたように付け足すものだから、思わず吹き出して、「 あら、ありがとう 」と返した。こういう一生懸命なところは全然変わっていなかった。


「 それで最近まで……心の変化っていうか、その……告白してから前みたいに少年探偵団のみんなで顔を合わせるの、なんだか気まずいなあって思っちゃって、…勝手に私だけで、だけど……そのせいなのか、集まること少なくなっちゃって… 」

「 別にあなたのせいじゃないわ。みんなそれぞれ忙しいんだし 」

「 うん……でもね、私、どんなに忙しくたって、またみんなで遊びたいの!――あんなにドキドキワクワクできるの、少年探偵団のみんなでいるときだけだから! 」

「 …そうね 」


 あれをドキドキワクワクと表現していいものだろうか、誰かさんが事件を呼び起こすせいで、ハラハラする場面も多いのだが…と一瞬思ったが、ここは肯定しておくことにした。


「 また計画してくれる?…円谷くんと 」

「 うんっ!もちろん!!――…ごめんね哀ちゃん、ありが… 」


 言いかけて、不意に歩美が黙る。そして、深刻そうな表情をうかべ、「 コナンくんっ?! 」と叫び、グラウンドの真ん中に向かって駆け出した。

 哀も、思わず歩美を追いかける。


 周りを4、5人の部活仲間が囲んでいてよく見えないが、誰かがうずくまっているのが見える。それを歩美がコナンだというのだから、きっとコナンで間違えないのだろう。

 ――哀は練習風景をさほど真剣には見ていなかったので、事態が飲み込めないまま、とりあえず歩美について走った。


「 どうしたの?大丈夫?! 」

「 どうも接触したみたいで…立てるか?江戸川 」


 その場にいた上級生がコナンに手を差し伸べる。

 どうやら、左足首を痛めたらしい。右足首で踏ん張りながら、差し伸べられた手を引き、やっとの思いで立とうとするが、よろけてしまう。


「 …っ……結構痛いっす…捻挫かな… 」

「 ちょっと待って、安静にして無理に動かないで。――あなた、他人より痛みを感じにくいんだから 」

「 …どういう意味だよ、灰原 」

「 救急箱を用意して、先生を呼んできて。――それから何か台になるような高さのあるものを持ってきて。カバンでもなんでもいいわ 」


 いつもならきっと、ケガ人が出たときは教師やコナンが指示しているのだろう。

 今日はあいにくすぐそばに教師がいない状況であるし、そのコナンがケガ人だ。黙って立ったままだった部員を見て、哀は部外者でありながらつい指示を出してしまう。


「 哀ちゃん! 」


 歩美が息を切らし、救急箱を持ってくる。

 中からコールドスプレーとテーピング用のテープを取り出し、迅速に応急処置をしていく。


 患部を心臓より高い位置にもってきたところで、一通りの処置が終わり、ふーっと一息つく。


「 念のため病院へ行くことね……今日はもう帰っても大丈夫なの?博士に迎えを頼もうと思うんだけど 」

「 ああ、サンキュー 」

「 哀ちゃん、ありがとう。――ごめんね、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって 」


 たまたま他のマネージャーの子も休んでたし、と歩美はうつむく。こういう仕事は、本来ならマネージャーがすべきなのだ。


 哀はそんな歩美の姿を見てハッとする。


 ――しまった、歩美をたててあげられたらもっとよかったはずだ。これだけマネージャーとして頑張ってる歩美のお株をとってしまったように映っただろうか…


「 でも最初にみんなの異変に気づいたのはあなただったんだから。――…出しゃばった真似してごめんなさい、私もう帰るわね 」


 帰る、と言っても必然的に博士の車でコナンと一緒に、ということになるが。

 ――ああ、もっと気を配れていたら。咄嗟の行動だったが、失敗だったのかもしれない。


「 あ、うん、本当にありがとう!――誰か、コナンくんに肩かしてあげて。私、荷物持ってくね 」


*


「 歩美に悪い、とか思ってんじゃねーだろーな 」


 その晩、夕食をとったあと、冷却のために氷を取り替えてくれた哀に、コナンはぶっきらぼうに話しかけた。


「 ……別に 」

「 そんなこと思ってるほうが、歩美のこと傷つけんだからな 」

「 ……分かってる 」


 分かってる、そんなこと。

 底抜けのいい子なんだから。きっと何もできなかった自分を責めるのだろう。


「 でも迅速な対応はさすがだったぜ。サンキューな 」


 あそこまで動けるやついなかったしな、情けねーの、と言いながら笑う。

 哀は突然のコナンの言葉に驚き、しばらくの間何も言えなかった。


「 ……ナマイキ 」

「 は?――なんだよ、かわいくねーな 」

「 ほっといて 」


 そっぽを向いていると、コナンは「 あっ、そうだ 」といきなり大声を出すものだから、哀は思わず顔をしかめてコナンのほうを見た。


「 オメー、今後サッカー部の練習なんか見に来んなよ 」

「 ………どういう意味? 」

「 だから、自覚しろっつーんだよ 」

「 ………変な人 」




End.


 pixiv 2012.09.27

再校正 2014.11.01