ゆれる花言葉

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 見慣れた街を離れてひとり。自分好みの品揃えである本屋に行き、せっかくだから散歩がてらにと、灰原は当てもなく歩いていた。

 きっかけは手元からふわりと宙を舞った新しい本の帯だった。風に揺られひらひらと地面を這い、カサリと音をたて、歩道の真ん中でとどまる。

 帯を拾い上げフと顔を上げると、昔ながらの喫茶店のような、社交酒場のような店が佇んでいた。

 白昼は閉店しているのだろうか。ビリヤードが描かれたネオンは静かなまま、人の気配も感じられない。隣接している他の店とは異なった雰囲気を醸し出していた。

 

 なんとなく目を奪われたものの、気にせずその場を離れようとする。が、そのとき、後ろから‘ご用ですかな’と声をかけられた。

 振り返ると、立っていたのは老年男性だった。丸眼鏡の奥で、人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。

 その老爺に導かれるようにして階段を上がる。鍵が重みのある音を鳴らし、ゆっくりとドアが開いた。

 

 

*

 

 

「 子どもにはまだ早いお店だわ 」

 

 格子窓から外の光が入ってくるだけで、薄暗い店内だった。外の空気とは違い、中はひんやりしているのが心地良い。

 壁にかかっているキューに比べ、やけに真新しいビリヤード台に触れ、バックバーにずらりと並べられた酒瓶を一瞥する。興味ありげな様子でぐるりと店内を見渡すと、灰原は、4人掛けテーブルの椅子の1つをそっと引き、腰かけた。

 

「 他にも出入りしている子どもがいらっしゃいますよ 」

 

 老爺はこの店のマスターのようだった。コースターを敷き、アイスティーを出してくれる。

 不揃いの氷がグラスの中で浮かぶ。別添えのレモンを入れ、ストローで控えめにひと口だけふくんだ。

 

「 それにあなたは、見た目よりずっと大人びている印象です 」

 

 向かいの椅子を引き、老爺は灰原から少し距離をとって座った。

 声が響きそうなくらい静かな店内で、話をするには不釣り合いに見える二人がぽつり、ぽつりと言葉を交わす。

 

「 一人になるにはぴったりね 」

「 ……何かお悩みでも? 」

 

 彼女の愁いのある表情が、幼さをかき消していた。落ち着いた声、淡々とした口調が妙にしっくりとくる。

 

「 どこか思いつめた顔をしておられる 」

「 ――あなたもお見通しなのね 」

 

 気まぐれでシロップを加え、ストローでかき回す。氷がカラカラと涼しげに踊った。グラスの汗がじわじわとつたい、コースターを湿らせた。

 

「 ――いつもそばにいる人を、 」

 

 透きとおった翡翠の瞳は、ハズレの石よりよっぽど綺麗だった。

 

「 気が付けばすぐに目で追っているみたい 」

 

 自嘲気味に笑うと、またアイスティーを一口。やわらかな甘みが、彼女に少しの安らぎを与えた。

 

「 その人も同じ。いつも見つめている人がいるわ 」

「 ――私も似たような経験があります 」

 

 穏やかに発せられた声に、灰原が店主のほうに顔を向ける。

 

「 自分には何ができるだろうかと、ずっと考えてまいりました。恥ずかしながら、この歳になっても… 」

 

 そう語る老爺と、ひまわりを前に気丈に語り、忠告をくれた老婦人の姿が自然と重なって見えた。

 ――…‘見つめるだけでは、いつかきっと後悔する’――

 彼女が見つめる先に存在するのは、おそらくあの名画ではない。真っ直ぐで切なげな視線がずっと忘れられずにいた。

 

 ひまわり。――夏の間、太陽の光をたっぷり浴びて元気に育つその花も、もちろん枯れるのは必然的で。まるで燃え尽きてしまったかのように頭を垂らしながら、それでも必死に背筋を伸ばそうと耐えるあの姿のほうが、どちらかといえば灰原には印象的だった。

 

 正直、自分がどんな目で‘彼’を見ているかなんて、深く考えたくもない。

 だが、いろんな色が混ざる思いに、時おり真っ赤な火が燃え上がることがあり、それをひどく煩わしく、むず痒く感じているのは確かだ。

 同時に、彼と同じ目線の高さでいられるのは今だけだということを思い出す。皮肉にも彼を幼児化させたのは自分の開発した薬のせいであるし、元に戻すのもまた、そうだ。

 だからひとたび火がつけば、よからぬことで頭の中が支配されそうになる。

 ――ずっとこうしていられたら、なんて、陳腐で面白くもないのに。

 

 この熱を帯びた感覚に、ずっと名前を付けずにいた。――頭では分かっていても。

 

 物思いにふけっている間、店主にじっと見られていたことにはたと気が付く。灰原はすぐに目を合わせて曖昧に笑ってみせた。

 グラスの中身が溶けかけの氷だけになる。程よい小休憩となったことに感謝した。さらに‘お代は結構’と言われ、ありがたくその厚意を受け取った。

 

 店を出た瞬間、ムッとした熱気が身体を包み込む。まだまだ夏の匂いがした。

 気を遣っていても日に焼けてしまう、素肌を晒した足で、階段を下りる。背後で控えめに扉が閉まる音がした。

 

 

*

 

 

 ひとりになった店内で、黒羽は雑にマスクをはがす。

 声をかけたのは興味本位か情報収集か。どちらにせよ素顔を見せるわけにはいかなかった。――いくらこの顔がよく知られているとは言っても。…だからこそ。

 

 ギイと、探るように店の扉が開く。恐る恐る顔を覗いたのは、先ほどまで店の中にいたはずの老爺だった。

 

「 ぼっちゃま…今しがた、店の前で… 」

「 ――ひまわりの花言葉みたいなお嬢さんだ 」

 

 ハンカチで額の汗を拭く寺井が言わんとすることを察し、遮る。うだるような暑さの中で帰ってきた彼に、コップ一杯の水を差し出した。

 

「 オレのメッセージにも気付かないままのつもりかねー、あの探偵… 」

 

 ひとりごとのように呟くと、クリーニングから返ってきたばかりの制服をバサリと放った。顔も背格好も似ていることを、これまで幾度となく利用してきたが、今回もそうだった。

 

「 いよいよレイクロックだ 」

 

 ぐるりとビリヤード台が回転する。現れたのは難攻不落と称された美術館の模型と、館内図だった。

 ひまわりを盗むつもりはない。傷つけず、守ることが目的だ。そう考えればこれほど都合の良いシステムはない。問題はどれだけ犯人の行動を計算通り阻害できるか、だった。

 

 世界中から集まる7枚のひまわり。上手くいくだろうか。――いや、やるしかなかった。

 

 この件は、多少の無茶をしても、成し遂げなければならない使命のようなものを感じていた。

 家族同然で自分を支えてくれた人の、大切な人。さらにはその人の思い出のひまわりに、再び影が差すように。そして、いつまでも消えないように――…

 

 

End. 


pixiv 2015.05.01