触れたい

 中学生になって3回目の春。

 なんとなくソワソワした気持ちになるのは、新たなスタートを切る時期だからだろうか、春の陽気のせいだろうか。


 休み明け。久しぶりに制服に腕を通すことにも、少しだけ気恥ずかしい気持ちにさせられたが、いつまでもそんな繊細なことは言っていられない。

 クラス分けで一喜一憂、担任は誰だとか、新任の英語教師が可愛いだとか騒いでいるうちに、新しい教科書は配られ、当たり前のように授業は始まる。

 「今年は受験の年だぞ」とこれまで何回聞いただろうか。おそらく夏が過ぎ秋を越え、冬が来ても「受験生だぞ」と強調され続けるに違いない。

 

 …――と、これはあくまで普通の中学生の視点から。

 ここまで全ての過程を横目で見ながら、「 なんだか忙しそうね 」と欠伸を1つこぼしたのは、灰原哀だった。しかし彼女も彼女で、春休みですっかり夜型になってしまった生活を元に戻すのに苦労している。…らしい。

 

 今日も4時間目は、クラスで男女にわかれて身体測定だったが、待ち時間は全て、うつらうつらとした状態で眠気と戦った。

 この時間、他の女の子は早速、クラスの噂話に花を咲かせているというのに、彼女は1人、ぼんやりとした面持ちで体育座りをしていた。半袖、ハーフパンツの体操着が、この時期にはまだ肌寒く感じるらしい。腕をさすり、一点を見つめる様子はまるで小動物のようだった。

 その様子を遠くから眺められ、「 今日も可愛いな 」と評されるのだから世の中平和だ。


 全ての測定を終え、チャイムが鳴り、教室に向かって廊下を歩いていると、偶然にも前からバタバタと駆けてきた江戸川コナンの姿が見えた。彼も体操着のまま、大方この昼休みの時間に、体育館で友達とバスケでもするのだろう。

 何の縁だか今年は同じクラス。それでも2人は、教室で親しげに話したり、ということはしなかった。学校内で話すような時間は、一緒に帰るときくらいだ。普段、あえて2人でいることもない。

 だからこの瞬間は新鮮だった。コナンは、フと少しだけ笑ったかと思うと、真っ直ぐこちらに向かってきた。


「 身体測定おわったか? 」 

「 ――ええ、たった今。…工藤くん、背、伸びた? 」

「 ああ、まあ、…168cmくらいになった 」

 「 そう、よかった。以前と同じくらいね 」


 成長期にさしかかり、念のため、工藤邸から昔の通知表やらスポーツテストの記録やらを引っ張り出していた。身長・体重も一通りデータとしてまとめてみたが、成長速度は工藤新一だった頃と大差ないようだ。

 

 徐々に開いてきた身長差。いつの間にこれほど見上げるような存在になってしまったのだろう。

 

 哀は少しだけコナンと目を合わせたかと思うと、白く細い腕を伸ばし、ふわりと自然な動作で彼の髪に触れた。


「 桜の花びら付いてる。抜け目ないロマンチストさんね 」

 

 クスリと薄く笑った彼女は、近くの窓から花びらを飛ばした。

 ここまで全ての動きが美しく可憐だった。そんな哀の様子に思わずドキリとさせられたコナンは、抜け目ないのはどっちだよ、と心の中で不平をこぼした。

 そして彼女の頬に触れようとしたのだが、その意志は次の瞬間、打ち砕かれることになる。


「 あっ!いた!コナンくん!! 」

 

 キャアキャアと騒ぎながら近づいてきたのは、同じクラスの3人の女の子だった。

 彼女たちは、彼の隣にいる哀の存在などどうだっていいらしい。「 彼女?そんなのどうだっていいでしょ 」とケロッと言ってしまうから、集団の女の子の持つ力は怖い。


「 ねえねえ、いま5月の球技大会の種目決めの話が出てるんだけど、コナンくん何に出るの? 」 

「 私、コナンくんがサッカー以外のスポーツしてるところが見たい! 」


 一気に押し寄せてきた波にコナンは対応しきれず、曖昧に笑って返していた。

 その様子は、誰が見たって、女の子に囲まれヘラヘラしている年頃の男の子にしか見えない。

 多少は困っているのかもしれないが、そこで哀が助け船を出すわけにもいかない。なるべく同じクラスの派手な女の子とは、穏便にやり過ごしていきたい。

 

 哀は「 じゃあ、またね 」と、伝わったかどうか分からないくらいの小さな声をかけ、その場からそっとフェードアウトした。その表情は穏やかではなかった。スタスタと過ぎ去る後姿からも、機嫌を損ねている様子がうかがえる。


 コナンは、「 ごめん、またあとで 」と声をかけ、「 えぇーっ! 」と不満そうな女の子たちをそのままに、急いで哀の後姿を追った。


*

 

「 灰原! 」

 

 特別棟の北校舎の階段を駆け上がる、2人の足音が響く。

 コナンが哀に追いつくのも時間の問題だった。別に振り切ろうだなんて考えてはいなかったが、追いかけられたら逃げたい気持ちになる。

 

 階段を上りきったところで、呼吸を整えようとペースダウンすると、すぐに追いつかれ腕をつかまれる。

 両手を握られ壁際に追い詰められ、向かい合わせする形となった2人は、一度同時に上がった息を落ち着けた。


「 ヤキモチ? 」 

「 …じゃ、ないわよ。邪魔して悪かったなと思っただけ 」

「 逃げることねーだろ 」

「 クセよ。だってあなたが追いかけるんだもの 」


 あ、今のは反則だ。

 

 向かい合っているのに俯いたまま目も合わせてくれないが、それがまた、欲情をかきたてる要因となる。

 汗ばんで湿り気のある手。まだ少しだけ上下している胸元。

 シン、とした廊下には日が差し込み、彼女の髪を一層明るく見せた。


 コナンは、少しだけ顔を傾け、目線の高さを哀に合わせた。しかし、頑なに目を合わせてはくれない。

 瞬きで揺れる長い睫が綺麗だな、と思った。そう思ったと同時に、ぐっと距離を近づけ、気付けば軽く触れるだけのキスをしていた。

 ぴく、と一瞬体を震わせ、握られている両手から力が抜けたのが伝わってくる。――力なんて抜けさせない。ぎゅ、ともう一度、両手を強く握った。


 いつだったか、学校でキスなんかしないで、と言われたのをぼんやりと思い出す。誰もいなけりゃよくねーか?と返したが、知らないうちに見られてるものよ、と。彼女らしい考え方だな、と思った。


 しかし、思い出したところで、この行為にストップはかからない。ついばむようなキスを何度か繰り返し、ちゅ、とわざとらしく音を立てた。桜色の唇も、透き通るような白い肌に少しだけ朱を差した頬も、この瞬間は自分の支配下にあった。


 人気のない校舎3階。遠くで誰かの笑い声が聞こえる。

 ――ああそういえば、この昼休みはバスケする約束だった。体育館に向かう途中だったのだ。

 身体測定から体操着のまま。せっかくだから軽く体を動かそうって話していた。5時間目の数学は寝てしまえばいい。そう思っていたのに。

 

 集中して、と言わんばかりに、上着の裾を引かれる。いつ手を離したんだっけ、オレ。いつ髪を触りだしたんだっけ。

 ふわふわとしたウェーブが指に絡む。相変わらず綺麗な髪だなと思う。春になりシャンプーでも変えたのだろうか、新しい香りだった。

 首から鎖骨にかけて撫でてみる。ん、と思わず漏れた声が悩ましげだった。ゾクッと痺れるような感覚が背中を駆け抜けた。

 

 薄く目を開け、彼女のほうを一瞥する。濡れた唇が、溢れた吐息が、あまりにも艶めかしい。

 ダメだ、これでは終わりが見えない。さまよう左手の行方が分からなくなってしまう。

 このままどこかへ連れ去りたい衝動に駆られるも、ぎゅっと拳を握り、必死に欲情を抑えた。

 

 はたと動きを止めた自分を、不思議そうに上目遣いでじっと見つめてくる。

 どうしたの?と今にも聞いてきそうな表情。いつも通り落ち着いた声で。…少しだけ冷めた翡翠の瞳で。

 どうしたもこうしたもない。思わず視線を外してしまった。

 

 ふと下を向くと、白くて細い腕が目に入った。再び手を取り、スッと腕を撫でた。


「 鳥肌立ってる 」 

「 …………… 」

「 ……そんなに気持ちよかった? 」

「 バカ。…――寒いのよ 」

「 上着は? 」

「 …いらないと思ったの 」


 そう言うと、コナンは上に羽織っていた自分の体操着を脱いだ。胸元にしっかりと江戸川、と記されている。

 そしてバサッとぶっきら棒に、哀のほうにかけた。――途端に不機嫌そうに顔をしかめた彼女は、ブカブカの袖から指先だけを出し、少しだけ乱れた髪を整えた。


「 オレあと20分でバスケしてくるから。教室で返せよ 」 

「 ………え、 」


 教室で?と聞こうとしたときには、すでに背を向け、階段を駆け下りようとしていた。

 

 呆れた。何をムキになってここまで来たのだろうか。それすらも忘れかけていた。

 少しだけ温もりが残っている上着から、じわじわと冷えた体が感覚を呼び起こす。

 こんなの着て教室に帰れるわけないじゃない。そう思いながら、今すぐには脱ごうとしなかった。


「 そうだ、灰原 」 


 ぴたりと足を止め、こちらに顔だけを向け、呼びかけてくる。

 可愛くないと思いつつも、「 なに? 」とだけ返した。 

 

「 今日は部活ないから。早く帰ろーな 」


 ニッと笑った顔が憎らしい。

 「 …勝手な人 」と小さくため息をつくも、口元には笑みを浮かべている。そしてゆっくりとその後姿を追い、階段を下りた。

 

 うららかな春の日の午後。

 やわらかい風が木々を揺らし、新しい空気に胸がざわめく感じがした。

 胸元で主張する名前を、隠すようにぎゅっと掴んで、軽い足取りで教室に向かった。




End. 


pixiv 2014.03.28