on a rainy day

 その日は朝から雨だった。天気はグズつき、あいにくの週末となるでしょう、というテレビからのお姉さんの予報を耳にしながら、冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した朝食のことを思い出す。

 それでもやり残していたことを進めなければと、やや重い足取りではあったがお昼には研究室へ向かっていた。

 そしてキリのいいところで終わらせ、真っ直ぐ帰宅しようか、何か軽く夜ご飯でも食べに行こうか、迷いながら歩いていると時刻はもうすでに19時。日は長くなったと感じるものの、こうもずんぐりした雨雲の下では、辺りはそれなりに薄暗い。

 傘をさした人間が行き交うのには少し狭い歩道が、不快でしかなかった。肩に滴り落ちた雫が、この春買ったばかりのジャケットをじんわり濡らしていく。

 そもそも、今日という日にこのジャケットを着て来たことが間違いだったのだ。夕方以降、気温は20℃前後だというから羽織ってきたのに、ジメジメと蒸し暑い空気の中では、体感温度はもっと高い。衣服の中で、うっすら嫌な汗をかいているのを感じた。


 ――帰ろうか。無理して嫌な思いをすることもないだろう。


 それまで泥水がハネるのを気にして緩めていた歩みを、あと50メートルもないだろう、地下鉄の入口まで急がせた。

 分かってはいたけれど、さっきより濡れてしまう。冷たい。だからこの季節は嫌なんだ。


 屋根のある入口まであともう少し、といったところで、大通りを走ってきた車がウインカーを出し、自分のやや前方で停車するのが見えた。

 珍しくもないありふれた国産車だ。気にも止めず、そのまま素通りしかけたのだが―…


「 宮野! 」


 その声に聞き覚えがないはずはなかった。助手席側の窓を開け、運転席から自分の名前を呼んだのは、他の誰でもなく、工藤新一だった。


「 工藤くん… 」

「 ――乗る? 」


*


 シートが濡れてしまったりしないであろうか心配になったのも束の間、ほら、と横からタオルを渡される。準備がいいのね、と、お礼とはいえない皮肉めいた言葉を返し、濡れたバッグやジャケットを丁寧に拭った。


「 どうしたの?この車… 」

「 仕事用だよ。見たことなかったっけ? 」


 少なくとも隣の自宅に、明らかに高そうな外車以外の車が停っているのは見たことがない。おおかた仕事先の駐車場にでも停めて使っているのだろう。―なるほど、事件現場に駆けつけるには便利かもしれない。


「 夜ご飯は? 」

「 まだだけど… 」

「 お腹すいてる? 」

「 ふつう 」


 普通か、そっか、と言いながら彼はどこか楽しそうだった。意外と顔色もいい。最近は忙しくもないのだろうか。

 最後に会ったのは確か2ヵ月ほど前、都内の事件現場に呼び出されたときだった。彼は探偵として、相変わらず事件に真っ直ぐすぎる。ろくに睡眠も取らず、飲まず食わずで働き詰める彼を、厳しい言葉で諭した覚えがある。

 大きくなってから、時が経つのがとても早く感じる。生活が充実しているからだろうか、2ヵ月前がとても以前のことのように思えた。


「 何か食べてく?今日博士いないんだろ? 」

「 そうだけど、どうして… 」

「 さっき電話したら誰も出なかった 」

「 ああ…そう 」


 そう、確か今週末は学会で群馬のほうに出かけていたはずだ。―電話をした、ということは元々、今日は自宅に帰って、隣で夜ご飯でも食べるつもりだったのだろうか。ホテル暮らしがほとんどで、警察署で睡眠を取っているような彼にしては珍しいことだ。


「 オレは腹へっててさ。――食べたいものとか、ない? 」

「 …冷たいもの 」

「 冷たいもの?…じゃあ、麺とかか 」


 なんだろうこの状況は、とフと思う。それぞれが仕事なりプライベートの用事なりを済ませて、一緒に帰宅する。それだけのことだと言ってしまえば、それだけのことなのだが…

 一言で、こうした何でもない時間を二人で共有するのが、新鮮だった。事件の捜査でもない。何か約束したわけでもない。小さかったあの頃の時間とも違う。――それゆえか、自覚しないようにしていたが、緊張、している。‘なんだかこれってデートみたい’とか、そんな風に女の子らしい発想にはいたらないのだが、それにしたって。

 いつもより割とラフな格好で、仕事のときにはつけないようなアクセサリーまでしている彼は、やはり女性がハッとするくらい、容姿端麗なんだと思う。ハンドルにかける指先まで綺麗だ。

 しかしそんな熱視線を送っているなんて思われたくない。寝不足のフリをしてあくびをひとつし、窓の外の風景を見ていることにした。


 小さい音でラジオがかかっている以外は静かな車内で、そういえばさ、と彼が話しかけてくる。


「 最近ちゃんと戸締りしてるか?博士忘れっぽくなってるけど 」

「 ―ええ、ちゃんと言ってるわ。ここのところ平和ボケして不用心になっているしね 」

「 米花町らへん、今年に入って空き巣被害多いらしいからなー。気をつけろよ 」

「 もう3ヵ月も家に帰ってないあなたがよく言うわよ 」


 3ヵ月か…、と意味ありげに彼がつぶやく。世間で言うところの春休みに、仕事で海外に行くためスーツケースを取りに帰ってきたのが最後だったはずだ。そのことを思い出しているのか、彼も、あれからまだ3ヵ月か…、と遠い目をしている。―そして、それにしても、と笑って続ける。


「 3ヵ月だなんてよく覚えてるな 」

「 …―当てずっぽうよ 」

「 名探偵だな 」

「 一緒にしないで 」

「 冗談。――オレが帰ってくるの、待っててくれたわけ?3ヵ月間 」


「 ………――別に、そんなんじゃないわ 」


 あ、間が空きすぎた。今のは不自然だ。図星だと言っているようなものだ。

 その意図が伝わってしまったらしい、へえ、と言いながらも、彼の口許は笑っている。


「 じゃあ今日は、このまま大人しく帰ろうか、3ヵ月も待ってくれてた家に 」

「 ………――だから、 」

「 そういえば久々に手料理も食べたかったんだよなー 」

「 作らないわよ?私 」

「 その間、シャワーでも浴びてるから、オレ 」

「 バカみたい 」


 それじゃまるで、新婚夫婦だ。幸せの縮図、そのものだ。

 こんな風にゆめみがちに連想してしまうなんて。

 …本当にバカみたい。


「 ――宮野、 」

「 なによ 」

「 顔赤い 」

「 ――赤くなんか、ないわ 」


 暗くてよく分からないが、サイドミラーにうつった自分の顔を見つめる。

 本当に赤くなんか、ない。いたって正気だ。冷静だ。

 半ば自分に言い聞かせ、気づかれないよう小さく深呼吸をひとつ。少しだけ雨に濡れ、乱れてしまった前髪に気がつき、サッと整えた。


*


 いつのまにか車は、カーナビでは指示されない、米花町までの裏道に入っていた。休日の夜だからであろうか、割と強いどしゃぶりの雨だからであろうか、人通りは少なかった。

 窓の外は、だんだんと見慣れた風景に変わっていく。自宅まであと10分とかからないかもしれない。

 じゃあ送ってくれてありがとう、おやすみなさい、とか、そんなことを言ってしまえばなんてこともない、今日という日は終わるのだろう。

 別に恋人同士だとか、そんな甘い関係でもない、はずだ。わざわざ彼の家にお邪魔し、彼のために夜ご飯を作るといった、先ほどの‘冗談’を真に受ける必要もない。頭では分かってる。ずっとこのような関係でいられるとは限らないということ。…頭では…

 さらに素直じゃないのだ。自分は。上手く言い表すのが苦手なんだ。


 いつまで意地を張っているのだろう。うつむいた瞬間、こぼれそうになったため息を、慌てて飲み込んだ。


 二人を乗せた車は当たり前のように、阿笠博士の家の前に停められる。着いた、と彼はつぶやいた。――終わりだ。ロスタイムは3分ないくらいかもしれない。


「 ――ありがとう、工藤くん。……3ヵ月振りの帰宅、ゆっくり体を休めなさいよ 」


 じゃあおやすみなさい、タオルありがとう、と続けようとしたが反応がない。


「 …工藤くん? 」


 と、もう一度呼びかけ、運転席のほうに顔を向けたそのときだった。

 ふわりと優しく自分の頬に彼の手が触れたかと思えば、次の瞬間、そっと唇が合わさっていた。


「 やっとまともにこっちを見てくれたな 」


 彼の瞳が迷わず自分の姿をとらえる。この真っ直ぐすぎる視線が、私には強かった。苦手だった。――逃れられない、そんな緊張感に高揚する自分が、恥ずかしかった。


「 手料理、作ってくれるんだろ?――先に行って、準備してて。オレ車停めてくるから 」


 いい?と子どもをあやすように聞かれ、黙ってコクリと頷いた。よし、と頭をポンと撫でられ、年下のくせに生意気だ、と目で訴えるも全然嫌ではない。


 今度こそ顔が赤くなってるかもしれない。じゃああとで、と小さい音のラジオにさえ、かき消されそうな声を発した。

 傘を持ち、雨水を心配しながら車のドアを静かに開ける。――が、いつの間にか雨は止んでいた。




End.


pixiv 2013.06.17