日なたの窓に憧れて

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 日本に着いたのはお昼が過ぎた頃だった。眠気と疲労と、必死に戦いながら諸々の入国手続きをすませる。

 1ヵ月のアメリカ滞在。ロサンゼルスにいる両親が自宅に荷物を送ってくれるとのことだったため、比較的、軽装で楽に移動できた。


 空港から出ている特急列車に乗り込む。2号車3列目、通路側C席。平日の昼間でもほぼ満席で、サラリーマンや旅行客で車内は混雑していた。

 帰国してすぐ、警視庁に寄ることになっている。ビジネスバッグから捜査に関わる書類を出すも、細かく内容を確認できるほど頭はまわっていなかった。


 出発まで少しのあいだ停車していた列車が、発車のメロディーを奏で、ゆっくりと走り出す。

 到着までひと眠りするかと目を閉じかけたとき、前方のドアから歩いてきた女性が1人、自分の座席の横で立ち止まった。「 すみません 」と声をかけ、前の、座席の狭い合間をぬって通り、隣の窓側の席に座る。

 白いシャツに膝までの濃紺のスカート。服装からは、社会人とも大学生ともとれる。――自分と同い年か、少し年上だろうか、20代半ばくらい。ふわふわとウェーブのかかった肩までの髪は、茶色でも特徴のある色だった。

 この色白で端正な横顔に、なんとなく見覚えがある。どこで見かけたのだろうと考えあぐねるも、すぐには思い出せない。

 ――ふと、備え付けのテーブルの上に無造作におかれた、航空会社のロゴが入った小さなお菓子の袋が目に入る。今朝、自分の機内食で出された軽食についてきたものと同じだった。

 そこで、あ、と思い出す。


「 もしかして、ロサンゼルスから12時40分着の飛行機に乗っていました? 」


 窓の外を見ていた彼女は、自分に声をかけているのだろうか、と不思議そうにゆっくりとこちらを向いた。


「 あ、ほら、消灯されてすぐ、体調が異変した人を診ていた方ですよね? 」

「 ――ああ、見られていたんですね 」


 落ち着いたアルトの声が、妙に耳に馴染む。

 そこで初めて目を合わせてきた彼女の瞳は、これも特徴のある翡翠の色で、吸い込まれそうなほど透き通っていた。


 あれ?と思う。まじまじと彼女のほうを見つめる。――余計なものを全て取っ払ったような、飾り気のない美人。……この感じ。冷たくて壊れやすいような、この独特の雰囲気。


「 あの、どこかでお会いしたことあります? 」


 何気なくそう言った途端、彼女は思いっきり、遠慮なく顔をしかめた。ふい、と視線を窓のほうに逸らし、無愛想に答える。


「 ――常套手段ですか?……工藤新一さん 」


 彼女の膝の上に置かれた日本の今朝の新聞に、‘迷宮入りに進展か?’‘工藤新一が捜査に関与’という見出しの記事が見える。小さいが、ご丁寧に顔写真付きだった。――彼女は、自分のことを知っている。

 新聞に載ってしまうような世間でも名の知れた人間が、何の関係もない、しかも女性である自分に気軽に声をかけてきたと、不可解に感じたのかもしれない。


「 あー…すみません、そんなつもりでは…… 」


 咄嗟に弁明しようとする。――すぐに、おや?と思う。言われて言い返す。この感じもどこかで…。

 思いめぐらしてみるも、ぼんやりとした不透明な記憶が自分を支配する。ここ数年間、自分に関して知っていることが曖昧だ。こんな自分に、初めて少しだけ苛立った。


 車内で流れるアナウンスが、間もなく東京駅だと知らせる。なんとなくスッキリしないが、ここで降りなければならない。――彼女の持つ乗車券には、品川の文字。残念ながらお別れの時間が来たようだ。


 簡単に手元の荷物をまとめ、「 それじゃ、僕はここで。――失礼しました 」と声をかける。

 彼女はチラリと窓からこちらに目を向けてはくれたが、視線を合わせようとはしなかった。何かを言おうともしなかった。


*


 駅を出たところで、近くまで用があるから、と車で迎えに来てくれた佐藤さんと待ち合わせをする。彼女は長い付き合いのある刑事で、お互い多少の無理は通用する。よくも悪くも信頼しきった関係だった。


「 ――どうだった?久しぶりのアメリカは 」

「 あー……まあ。……まあまあです 」


 運転席から、ハキハキした声で聞いてくる。いつ、どんなときも、忙しさや疲れを感じさせない物言いだった。

 佐藤さんの聞く‘どうだった?’は、記憶への変化のことだ。自分に関する全ての記憶を失ってから数年が経つ現在に至るまで、唯一彼女だけ、ずっと同じように質問してきた。‘工藤新一’にとって、どこか懐かしい場所に訪れたとき。古くからの知り合いらしい人に出会ったとき。

 いつだったか、「 推理力や生活に支障はないんだし、もういいじゃない 」と言う親しい婦警に、「 諦めきれないのよ 」と返していた佐藤さんを思い出す。偶然、耳にしてしまった言葉が、未だになんとなく忘れられずにいた。

 そんな期待に反して、何かを思い出せたことはない。



「 ――あ、そういえば 」


 信号が黄色から赤に変わり、ゆっくりと車が停止する。当然ではあるが、緊急でないときの彼女は、やけに安全運転だった。


「 帰りの電車で、不思議な印象を与えてくる女性と隣になりました 」

「 ――女性?……めずらしいわね。興味ないんじゃなかった? 」

「 そうです。全く。――だから自分でも、あれ?って 」


 窓から見慣れた風景を眺める。空も街も、なんとなくアメリカのそれとは違って、窮屈に感じられた。


「 どんな人? 」

「 これがまたすごい美人で。年齢は自分と同じくらい。……振る舞いとか、喋り方とか、妙に落ち着いてて 」

「 ――名前は?聞いたの? 」

「 いいえ?――あ、でも、……、…ちょっと待ってください 」


 映画も消して、うつらうつらしていた消灯後の機内を頭の中に浮かべる。――確か、自分の座席から見て右側の少し前のほう、通路を挟んで向こうの座席のブロックで、突然、男性が苦しみだした。たまたまそこを通りがかったあの女性が、「 どうかしましたか? 」と男性に声をかけ始めた。……近くにいた人に、乗務員を呼ぶように告げて、彼女は男性の介抱にまわった。

 少し経って、乗務員が駆けつけてきた。その乗務員に対して、身分証明書のようなものを差し出し、名乗ったその名は――…


「 ミヤノです。――…うん、ミヤノです 」


 下の名前までは分からないな。――そう言いながら、ちょうど着信音が鳴り、メールが来たらしい携帯電話に視線を落とした。


「 なんか見覚えがある…懐かしい感じがしたんですよね。だから声をかけたのに。――ナンパと間違えられた 」

「 ――…宮野さん… 」

「 ええ、そうだったはずです、確か。――…佐藤さん?ここ左ですよ? 」


 真っ直ぐ、前を見つめたままの彼女の異変に、気付いてはあげられなかった。人に対する観察力はあるはずなのに、自分が関わると全く分からなくなる。嘘も本当も、真実も。


 ――自分はいったい誰なのだろうか。彼女はいったい誰だったのだろうか。

 一瞬の出会いが残してくれたのは、言葉にできない安心感と、ノスタルジーだった。





pixiv 2014.08.29