日なたの窓に憧れて

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 目が覚めたときのことは今でもよく覚えている。

 静かだった。窓から日が差し込んで、部屋の中は過ごしやすい適温に保たれていて。心地のいい、ぼんやりとした気持ちでいた。

 ベッドの中で身じろぐと、横の椅子で本を読んでいた一人の男性が目を覚ました自分に気が付き、穏やかに「 起きたのか 」と、一言だけ口にした。

 あまりにも自然に、まるで朝が来たかのように言うから、まさかそこが病室で、そこで3ヵ月も寝ていたなんて思わなかった。


*


 アメリカの大学を卒業して日本へ戻ってきて、研究所で勤め始めて少し経つ。

 一人の人間としての、不自由ない暮らし。人と違うのは、18歳以前の自分の記憶が一切ないということ。――けれど、脳に障害は見つからなかったし、少し頭を動かせば、多くの知識が蘇り、また身に付けられるようになっていた。

 記憶がないことに、あまり恐怖はない。むしろ晴れやかな気持ちでいるつもりだ。

 それでも時々、自分に関することで、言葉にできないほど物騒な感覚に襲われることがある。雨の日にいつも同じ夢を見たり、雪の日に古傷が疼いたり…。けれど、そういうことがあっても「 気にすることない 」と言われているため、そのようにしていた。よくも悪くも、もう慣れてしまったとも言える。


 意識が戻った瞬間から保護者のように接してくれ、時おり会っては近況を聞いてくれる赤井さん。休暇を利用し、大学卒業以来、足が遠のいていたアメリカを旅行した帰りに駅で待ち合わせ、そのまま車で墓地に向かう。

 自分の家族は事故で亡くなったらしい。だからこうして年に一度は、2人でお墓参りをしていた。

 途中、寄り道をして花を買った。姉が好きだった花らしく、いつも同じもので、同じ色だった。

 ――よく知っているなと思う。野暮なことは聞かないが、もしかして恋人関係だったのだろうかと勘ぐる程度には。


 古い花を抜いて、新しいものを挿す。

 家族の写真を見ても、誰一人として心を動かしてはくれなかった。――そのことに対して冷静な自分が怖いけれど、身寄りがいないことを認識する瞬間が来るのも困る。

 知らないほうが幸せだってこともある。とりあえず、五体満足で普通の生活ができている今に感謝した。



 形式的なお参りを引き上げ、車に戻る。長時間のフライトによる疲労と眠気を抱えながら、高さの低い靴で砂利道を歩いた。



「 ――そういえば、帰りの電車で工藤新一に遭遇したわ 」

「 ――工藤? 」


 車の前でシガレットに火を点けた彼は、こちらを見ることもなく聞き返した。

 以前に吸っていた銘柄は、その香りが何故か自分に酷い頭痛を起こしたので、吸うなら違うものにしてほしいとお願いした。それでも煙草はなんとなく苦手だった。


「 ほら、有名な探偵の 」

「 ――ああ……お前のお気に入りか 」

「 ……そんなんじゃないわ 」


 ここ数か月の間のこと、その探偵は、立てこもり事件の人質の一人となったことで、またたく間にその名を広げた。そこにいた誰もが冷静でいられなくなっている状況下で、彼は一人、人質らに上手く指示を与え、犯人を利口に誘導したのだ。

 事件は死者・負傷者を出さず見事に解決。事件後の取材を通じ、その日の夜には既に‘工藤新一の復活!立てこもり事件を鮮やかに解決!’と各機関から大きく報道されていた。

 ――数年前にも、名の知れた探偵だった工藤新一。この事件で明るみになるまで、世間的には何らかの事件に巻き込まれて死んだと思われていたらしい。

 とある番組のインタビューで、「 確かに、一度は死んだようなものです 」とヘラリと笑っていた姿が、どういうワケか強烈な印象を与えてきた。――まるで、自分を見ているようだと。

 それからなんとなく彼のことをチェックするようになった。頭脳明晰で容姿端麗な彼は、再びメディアに露出する機会を獲得したのだ。

 彼が解決した事件の記事、ファッション雑誌のインタビュー、ニュース番組のゲスト出演…。見れば見るほど、知れば知るほど、何か自分自身に訴えてくるものがあった。――だが、この感覚の正体は分からなかったし、上手く説明できないものだった。


 彼に実際に会ってみれば、もっと、何かインスピレーションのようなものを受けるかと思っていた。――だが、自分の期待に反して、そういったことは全くなく。

 一つ印象深いと言えば、あの変わった碧の瞳くらいだろうか。じっと見つめられると、どんどん惹きこまれていきそうだと感じたため、途中から視線を合わせることを止めた。

 それからもう一つ、何か妙に安心感を与えるものがあった。落ち着くというか、気が緩むというか。――けれど、それはおそらく彼が世間から救世主と呼ばれているからだろう。隣にいるだけで、今なら何が起きても大丈夫だと、そう感じるのはごくごく自然なことだと思う。

 気がかりなのは…――‘どこかでお会いしたことあります?’――…常套手段かとあしらった彼の言葉が、ずっと頭に引っかかっている。何を思ってそう言ったのだろう。特別な意味があるならハッキリ伝えてほしかった。



「 ――ねえ、私、あの人と本当に何もないのかしら? 」


 ゆらゆら揺れる煙草の煙を見つめ、再三にわたり問いかける。


「 …さあな… 」


 携帯灰皿に灰を落とし、遠くを見つめながら呟く。ぼんやりとした相槌に、彼の意思は宿っていなかった。いつもと変わらない同じような返答に、思わずため息を吐きそうになる。


「 相変わらず興味ないのね 」


 ふてくされたような態度をとった自分のほうにチラリと目をやると、「 ……そんな顔をするな 」と励ましともとれない言葉を投げた。 そしてパタリと灰皿を閉じ、ポケットに入れる。

 基本的にポーカーフェイスの彼は、何を考えているのか分からないことが多いと、横顔を見つめながら思う。


「 大事なことであれば思い出すだろう 」


 ――家族のことだって、隣にいるあなたのことだって、思い出せないのに?

 嫌に無責任に感じた彼の言葉に、喉まで出かけた反論を呑み込んだ。そうやって言ったところで、どうしようもなかった。


 そろそろ行こうか、という彼に、無言で頷く。いつの間にか随分と空は高くて、日中なのに月が見えた。

 手を伸ばしても届くはずがないけれど、空を掴んで掌の中にギュっとおさめた。

  

   



月かげに花を添えて pixiv 2014.09.08