日なたの窓に憧れて

― 3 ―

 空が高く感じられるくらい、すっきりと晴れた日。

 午前中に用事を済ませたあと、たまたま大阪からこっちに来ている、服部と待ち合わせをする。

 彼は、覚えている・覚えていないを取っ払い、難しいことを考えずに接することができる、稀有な存在だった。どんな状態でも工藤は工藤、と言ってくれるあたり、かつて余程の信頼関係を築いていたのだろうと思う。


 今日の移動は、気分的に電車。わざと目的地の一駅前で降りて人混みの街を歩き、待ち合わせ場所へ向かう。

 記憶を失くしてから、たまにこういうことをするようになった。あえて人が多く集まるところに行く。自分という存在を雑踏に隠す。何も考えずに歩く。――孤独感だけが募る。

 経済的にも、友人や家族、仕事仲間にも恵まれて。今やテレビや新聞でも取り上げられるようになって、名声も得て。みんな‘工藤新一’を知っていて。

 一人歩きしているような気がした。伝えようもない感覚だった。


 信号が赤から青に変わる。スクランブル交差点を渡る。どこから集まってきたんだと思うくらい大勢の人間が、一気に動き出した。


 横断歩道の真ん中あたりまで来たとき、おや?と思う。前方から歩いてくる女性に、どこか見覚えがあったのだ。

 ウェーブのかかった、特徴のある茶色い髪。やや下がり気味の視線。透き通るような白い素肌。スラリとした背格好。――その一つひとつが強烈な印象となって、脳裏に焼きつく。


 信号が点滅を始めた瞬間、無意識のうちに振り返って駆け出していた。

 人混みをかき分ける。ちょっと待って、と声にならない言葉が喉まで出かかって躊躇う。――それで止まってくれるわけがなかった。するりするりと、上手い具合に人の波に逆らった彼女を、あっという間に見失ってしまう。


 振り返ってから追いかけるまで、たいした距離でもなかったのに。狐につままれたような感覚だった。

 ――本当に、幻だったのかもしれない。疲れているのかもしれない。

 そもそも、見間違いだったかもしれない。あれからもう2ヵ月は経っていた。あのとき出会った彼女の面影だって薄れてきている。


 信号が赤から青に変わる。先ほどと同じ位置に立っている。

 改めて渡り直そう。大体、彼女に追いついたところで、どうにもならなかっただろう。話しかけたって怪しまれるだけだ。

 ――そう思って歩き始めたとき、不意に後ろから、ぐいっと腕を引かれた。その感覚に驚き、勢いよく振り向く。



「 名探偵さんも、街中を歩くのね 」


 妙に耳に馴染む声。日本人離れした容姿。

 カジュアルなパンツスタイルで、装いこそ全く異なっているが、そこには、以前、空港からの特急電車で隣になった彼女が立っていた。

 ――やっぱり、すれ違ったと思ったのは勘違いではなかった。幻なんかではなかったのだ。


「 ――けれど、素人ひとり追いかけられないなんて……探偵、辞めたほうがいいんじゃない? 」


 冷ややかな瞳で笑って言う。――ああ、どうして。こんな皮肉も、どうして嫌じゃないのだろう。

 美人なのに。黙っていれば、誰もが見惚れるだろうに。むしろこのほうが、しっくりくる。

 思わず口元が緩みそうになるのを堪えた。


「 あなたの逃げるのが上手いんじゃないですか? 」


 ――ミヤノさん。

 最後に協調して、その名前を呼んでみた。一瞬、目を見開いた反応を確認し、ミヤノで合っていたんだなと思う。


「 ――さあ?そうかもね 」


 曖昧な言葉で返す。伏せられた視線からは、その言葉の真意が読み取れなかった。



「 じゃあ私はこれで 」

「 あ、ちょっと待って、オレたち本当にどこかで、 」

「 その手には乗らないわ 」


 ふい、と、その場を去ろうとした彼女を引きとめようとしたとき、大勢の人が行き交う歩道の中で、‘キャーッ’という女性の悲鳴が聞こえた。

 ハッとさせられ叫び声のほうを見ると、人と人との隙間から、うずくまる女性と、その場を立ち去ろうとする男の姿が目に入った。血痕のようなものも確認できる。


「 ――宮野!警察と救急車! 」

「 え?――ちょ、ちょっと、 」


 咄嗟に彼女に指示を与え、勝手に足が逃げ出す犯人を追いかけようとする。

 走るのに不似合いな少し高めのヒールが、戸惑いがちにコツ、コツ、と鳴らす音を耳で確認しながら、自分は犯人らしき男性の後姿に集中し、一気に駆け出した。


*


 息を切らし、足が力なく減速する。

 野次馬だらけの人だかりの中、歩道の隅で、ガードレールにもたれかかっている彼女の姿を見つける。そして、戻ってきた自分のほうに顔を向けた。


「 逃げられたの? 」

「 ああ、バイクを使われて……被害者の女性は? 」

「 幸い、浅い切り傷だったわ。簡単に止血して、いま救急車で運ばれたから、とりあえずは安心して 」


 救急車のサイレンの音が、小さく消えていくのが分かる。ふーっと息をついた。

 どういう人かは知らないが、応急手当ができるらしい彼女を現場に残し、被害者を任せたのは正解だった。

 なぜこれほど信頼できるのだろう。彼女から醸し出される、特有の安心感が理由だろうか。



「 警察もそろそろ――…… 」


 来るころだろうか。

 そう言いかけたとき、彼女の後方から険しい表情を浮かべ、こちらまで一直線に走ってくる服部の姿が目に入った。

 ――ああ、やっぱり怒っている。バイクで逃げた犯人を追いかけている際に服部に電話をかけ、協力を求めたのだ。タクシーに乗っていた彼は、急にその場で車を降りることになり、すぐに街中を走り回ることになってしまったらしい。


「 おい工藤!お前、人づかい荒すぎんのとちが…… 」


 会って第一声、不平不満を言われるのも当然。――そう思って身構えたのに、なぜかその語気がゆるゆると弱まっていく。

 急に大声で関西弁が聞こえたことに驚いたのか、彼女が不思議そうに後ろを振り返った。



「 …なんで……ここに… 」


 息切れとともに、しぼり出されるような声で言葉が途切れ途切れに発せられる。

 目を丸くして、彼女の姿を真っ直ぐ捉えていたため、てっきり服部は‘ミヤノさん’のことを知っているのかと思わせた。けれど、「 お知り合い? 」と、きょとんとした彼女が尋ねてきたために、そうではないのだと分かる。


「 じゃあ本当に、このあと予定があるから 」

「 え、あ、……ありがとう 」


 お礼の言葉も最後まで聞かず、マイペースにその場を去っていく。その後姿を見送った。


「 あの姉さん… 」

「 ああ、通りすがりの……女医さん?――今度こそ名刺でももらっとけば… 」

「 工藤、あの人に構うな 」

「 ……――え? 」


 人混みに消えゆく彼女を見つめながら、抑揚のない声で、淡々と一人、つぶやくように話す。目が真剣で、これほど思いつめた表情をしているところは、初めて見たかもしれなかった。


「 構ったらアカンで 」


 言い聞かせるように放たれた言葉は、力なく喧噪に溶けて消えた。



 服部を見ながら半ば本気で、彼女は‘幾多の男の、金も心も奪ってきた魔性の女’か何かかと思った。

 そんな脳天気な考えが通用してくれたほうが、ずっとマシだった――……




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明るい未来を照らして pixiv 2014.10.27