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どうしてこんなことになっているのだろう。ため息は印象が悪いので、ぐっと我慢する。
事務所近くのカジュアルなイタリアンレストランに来ていた。全て個室となっており、たまに依頼者と訪れることもあったので、過去に何度か来ている。
4人掛けのテーブルで、隣に工藤、その目の前に…比護隆佑がいる。どうして…ともう一度思う。――いや、なぜだかは分かっている。
2人は、先ほど訪れたフットサルコートで出会ったらしい。再会、とも言うべきか。工藤がフットサルを始めた頃だから、もう1年以上は経つ。
それでは一緒にフットサルをしているのかと聞くと、そうではないようだ。プロのサッカー選手を、個人のフットサルに付きあわせるわけにはいかない、と言う。
「 隣のジムに通ってるんだ。エントランスは同じだから、そこでばったり 」
「 元々ジムの人に、最近すごく豪華なメンバーでフットサルが行なわれているんですよーっていう話を聞いてて、工藤がいるのも知ってて。いずれ会うだろうって思ってたけどね 」
「 ――で、たまに練習とか見てくれて、大会も来てくれて。――ね?比護さん 」
「 ああ、工藤は上手いからね。見てて楽しいし。――本当にもったいないと思いながら、しつこく追いかけてる 」
先に届いたソフトドリンクを飲みながら、2人の説明に聞き入る。比護隆佑という人は、良い意味で、イメージと違うなと感じた。
もちろん、以前から好きだったために、試合を観に行ったこともあるし、インタビューに答える姿も見たことがある。しかしそれはあくまでサッカー選手としての姿であり、オフのときの姿ではない。
こうして初対面の自分を前にしても、全く気取ることなく、気さくに話してくれる。また、知り合ってもう長く経つのにも関わらず、工藤に対しても細かな気配りを忘れてはいない。
物心ついたときから組織の人間として育てられ、現在に至るまで薬品まみれの研究室で多くの時間を過ごしている自分にとって、出会うことのないような人だった。
「 2人は?どうやって出会ったの? 」
「「 …………… 」」
「 ――雨の日にフラフラしてたんですよ。それを隣人が拾って、それから 」
「 ちょっと… 」
「 ……野良ネコか何かの話? 」
クスクスと可笑しそうに笑う。ボールを追いかけているときとは違う、表情豊かな一面だった。
「 同じ大学出身で。冷静で頭がいいんで、仕事でも協力してもらってて…片腕っていうか、そんな感じです 」
さらっとそう言う工藤を見ながら、ああ、気を遣っているんだな、と感じる。本当はもっと、紆余曲折あったはずなのに。一般の人に、1から10まで説明するわけにはいかないのだ。
それからは前菜から始まるコース料理が届いて、話は徐々に比護のサッカーの話や、チームメイトの話に変わった。どれもとても興味深く、聞き逃しのないように耳を傾けた。
食事をしながらで、緊張も少しだけ解けたものの、それでも相槌を打つだけで、自分から話したりはしなかった。
大人な対応で構える比護と、いつになく気が利く工藤のおかげで、居心地が悪い空間ではなかった。むしろ、良かった。こういう場は本来苦手であるはずなのに、そう感じた自分が不思議だった。ここが少しだけ行き慣れたカジュアルレストランであったことも、救いだったかもしれない。
「 最近、サッカー選手で結婚決める人多いじゃないですか。比護さん、そういう話は… 」
「 お前…分かってて聞いてるんだろ?――順風満帆な自分の尺度で考えんなよ 」
冗談交じりで、自嘲気味に笑った。もういい年だしな…と遠い目をしてつぶやく彼に、思わずクスリと笑みをこぼす。そんな自分に、彼は唐突に話をふってきた。
「 宮野さんは、工藤のどこがいいの? 」
「 ――え?…と、 」
「 あー言わなくていい言わなくていい。聞きたくない 」
「 …あのね…――私、彼の恋人なんかじゃないですよ。……あなたも否定しなさいよ 」
思いっきり顔をしかめて言った。そんな私と彼のやりとりに、へえ、と目を丸くする。
「 なんだ、親しそうだから、そういうことだと思った 」
「 付き合いは長いので。小さい頃から知ってて 」
「 それすげー皮肉。――そうだ比護さん、宮野とかどうです?フードマイスターの資格とか持ってるし 」
「 持ってないわよ適当なこと言わないでくれる?――あ、 」
鞄の中でスマートフォンが光っているのが目に入る。同じ研究室の教授からの電話だった。
盛り上がる話の腰を折り、ちょっとすみません、と言って席を外す。
2人だけが残ったテーブルで、工藤が、そういえば、と話を続ける。
「 比護さん、蘭のこと見たことありましたよね? 」
「 え?――ああ、何度か 」
「 じゃあどうして… 」
どうして宮野のことを自分の彼女として認識し、話を進めるのか。そこまで言うのは野暮だと感じ、口をつぐんだ。
「 ……ずっと工藤が否定しないからさ、いつ表情を崩すかなって思ったんだ 」
「 ……それって…… 」
なるほど、と合点がいった。いくら恋愛にウブで鈍感だと言われ続けた自分でも、目の前にいる男の微妙な表情の変化で、ある程度のことを理解する。
「 前に学校で宮野のことを見かけたとき、好みって言ってましたもんね 」
「 ……覚えてたのか 」
「 僕が家の前で話してたときも…たいした記憶力いらないです 」
なんだ。偶然を装った必然だったのかもしれない。少しだけ照れたように目を逸らす比護に、自然とこちらまで口元が緩んでくる。
「 僕、応援はしても、露骨に協力はしないですよ。アイツすげー神経質だから、嫌がりそう 」
「 ああ…そんな感じだな 」
「 ちなみに比護さんのファンだったはずなので、こういう機会は歓迎…とまでは言わないけれど、それなりに嬉しかったと思いますよ 」
繊細で不器用で、物事を難しく考えすぎていて。以前は悲劇の波にもまれてきたような哀しい印象が抜けなかったけれど、最近はすっかり前向きに生きているようだ。
だから、もっと普通の女性として堂々としてほしい、と思う。せっかく誰もが振り向くくらい美しい容姿と、人並み外れた頭脳に恵まれたのだから。
ファンだと聞き、分かりやすいくらい表情を明るくした比護を見つめ、工藤は少しだけ複雑な表情で笑った。
*
時刻は22時をまわらないくらいだった。そろそろお開きにしようと、会計をする。
2人でご飯のときは適当に交互で支払ってるんだ、と言われ、やんわりと財布を出すことを制される。今日のお代は比護が支払うことになった。
「 あ、僕は今日、事務所で泊まるので 」
駐車場まで来たとき、工藤が平然とそう言った。帰り道が同じだから、仕事のあとは工藤の車で帰ることが多かったために、え?と思わず聞き返す。
「 明日、始発の飛行機乗らなきゃならねーんだ。――じゃ、比護さん、宮野のことお願いしますね 」
勝手にガチャリと助手席を開けられ、乗るように促される。工藤のこういう無鉄砲なところは以前と全く変わらなかった。
でも…、と戸惑っている自分に、通り道だから、と彼は言う。そういう問題じゃないんだが、と思った。
「 乗り心地がいいとは言えないけど。ここから20分くらいだよね? 」
比護に笑顔でそう言われ、しぶしぶ頷く。さあ乗って、と彼にも促され、遠慮がちに助手席に座った。
「 今日はありがとうございました。じゃあまた 」
工藤が運転席の窓を開け、軽く挨拶をする。それに応えるように、比護は片手をあげた。
車は街灯がともる大通りを、ゆっくりと走り出した。
再びなんで、と思う。
一緒に食事して、車で送ってもらうだなんて。
会った瞬間よりは緊張もいくらか解けたし、表情もやわらかくなったと自覚しているのに、車内で2人となるとまた話は違う。
耳に障らない程度の音量で流れているラジオが、さらに緊張を助長させる。窓の外をぼんやりと見つめて、黙ったまま。何か話したほうがいいのだろうか、分からなかった。
そうやって思っていると、不意に比護が、道間違えちゃった、ごめん、と謝る。その表情は硬く、ぎこちなかった。初対面の人を送るのに、緊張しているのだろうか、と思う。
その様子を見て、なんだか少しだけ心が落ち着きを取り戻したような気がした。――そこで、思い切って話しかけてみる。
「 あの…、今日は私までお邪魔してしまって…すみません 」
「 ――いいよ。誘ったのオレだしね 」
「 …それで…ずっと、無愛想な態度をとってしまったって思ってるんですけど… 」
「 うん……そうだったかな 」
「 私、本当は…比護さんのことずっと…、 」
自分でも何を言ってるのか分からなかった。
もう二度と会わないかもしれない。会うことがあっても、2人で話すことはないかもしれない。そう思ったら、自然と口にしていた。
ずっと応援していた。お会いできて嬉しかった。今日は楽しかった。そんなことを伝えたかったが、上手く言葉にできない。そんな自分が、情けなくなった。
「 うん…応援してくれてたんだよね?――ごめんね、先に工藤が教えてくれてて。…ありがとう 」
言葉が続かなかった自分に、そうやって優しい声でお礼を言ってくれた。――そのお礼が、純粋に嬉しかったと同時に、本当に選手とファンの関係でしかないのだ、これで終わりなのだと感じた。けれど、十分だと思った。
もう一度窓の外を見る。夜の街に光る色とりどりのネオンライトが微かに滲んで見えた。
サッカー教室で目の前に比護選手を見てから、もう随分と時間が経つなと、古い記憶を懐かしむ。あの頃はまだ、灰原哀だった。
思えば、あの頃のほうが自由だった気がする。組織に怯え、ビクビクしながら過ごした日もあったけれど、仮の名と仮の姿で過ごした時間は、わずかでありながら立派な自分の幼少期の一部だ。――楽しかった。素直にそう感じる。
今ではもう、本当の自分の姿を取り戻した。以前とは違い、レールも敷かれていない。自分のことは自分で決めなければならないし、社会的な責任だってある。
甘えたことは言えない。夢ばかり見ていられない。新たな人生を全うしたい。
「 来月さ、工藤に大会を見に来てくださいって誘われてて。たぶん遊び半分でワンプレーだけ参加する場面があるんだけど 」
シンとした車内に、彼の声だけが響く。戸惑いの色を浮かべながら視線を送り、その横顔をじっと見つめた。
「 よかったら見に来てくれるかな、志保ちゃん 」
思わず目を丸くして、その言葉の意味を懸命に噛み砕いた。――どう考えたって、100パーセント好意的な誘いだ。分かりやすいくらいに狼狽え、目を泳がせてしまう。
そして、やっとの思いで返すことができた言葉が――…
「 い、…けないです 」
「 ――…えっと、それは、 」
「 …迷惑でしょう?ミーハーなファンがそうやって 」
「 ファンがいたほうが燃えるんだけどな 」
「 …でも、 」
我ながら可愛くないと思う。しかし、今日の練習だって場違いだと感じたのだ。大会の場ともなるとさらに浮いた存在になるだろう。
自分は、そういう表舞台で活躍する人間とは違う。陰で目立たずひっそりと生きていくのに、すっかり慣れた存在だ。
だから、そういうのは違う。はっきりと説明はできないが、身の丈に合ってないのだ。
「 じゃあさ…――志保ちゃんのためにシュートするから、見に来て 」
「 …そんなの、…ずるいです 」
「 お願い。絶対いいとこ見せる 」
「 …じゃあ、予定が合えば… 」
その言葉に、ファンをもてあそんでいるだとか社交辞令で適当に言ってるだとか、そういう感じはしなかった。むしろあまりにも真面目に言うものだから、こちらが戸惑ったくらいだ。どう返していいものか分からなかったために、つい言葉を濁してしまった。
けれど、嬉しかった。素直にそう感じた。今、この瞬間だけは最も近くにいるファンだ。その事実だけで十分だった。
見覚えのない道から、なんとなく知っている風景に変わってきた。別れが名残惜しく感じられたが、そんなことも言っていられない。
長い午後だった。一生忘れないと思った。
pixiv 2014.06.20